連載⑬「日本国憲法を学びなおす」
小さな島国の宝物~日本国憲法の話をしよう その6
野間 美喜子 (2003)
「国連協力」から「国際貢献」へ
東西対立がなくなって、「西側一員論」はもう根拠がなくなった。すると今度は、「国連協力」と言い始めます。ここがまた日本国民の弱いところで、「国連」というとプラスイメージがあって、何か協力しないといけないのではないかと思ってしまう。上手に攻めてくるんですね。これに対して、私たちはどう考えていくかというのは大きなテーマです。
「国際貢献」と、いつ頃から言い出したかと見てみますと、1988年に竹下内閣が国会で、日本外交の主題として、「世界に貢献する日本」という言葉を使って演説をしています。しかし、具体性は帯びていませんでした。「貢献」という言葉が具体性を帯びてきたのは、1990年8月の湾岸危機からです。
湾岸危機に絡んだ「中東貢献策」というふうにマスコミに使われ始めます。例えば8月22日の朝日新聞には「中東貢献策検討急ピッチ」とあります。そして8月29日には政府が「中東における平和回復活動にかかわる我が国の貢献策」を発表する。9月14日には貢献策第二弾が出てくる、という具合です。
湾岸危機に対して、国連の安保理事会はアメリカ主導で立て続けに決議を採択していきます。「イラクはクウェートを侵略した。」と批判して、まず経済制裁の効果を上げるために、すでに湾岸地域に海軍を派遣している国家に対して必要な措置をとること、そして他のすべての国はそのための援助を提供するように、という決議を採択しました。そして1991年1月に国連の多国籍軍を使ったアメリカがイラクを空爆する、という構図になってきます。
湾岸戦争たけなわの時に、アメリカは日本に「目に見える協力を」とか「金だけでなく人も」と言うんですね。日本はこうした圧力や国連決議を利用して、念願の自衛隊の海外派遣を実現しようとしました。その錦の御旗に使われたのが「国連協力」です。国連に対する「中東貢献策」が、さらに広い意味での「国際貢献策」というふうに使われました。
1990年の秋の国会に、自民党は「国連平和協力法」という自衛隊の海外派遣を含む協力法を提出します。しかし、ここでは世論の猛反撃を受けて断念します。その二年後に、PKO協力法案という形で出てきて、今度は国会を通ります。その時、政府はPKOをそれは美化して、「PKOは平和のためのすごい組織だ」と言いました。
重装備の軍隊へ、変貌するPKO
ここで、国連とPKO(国連平和維持活動)の関係について、少し見てみましょう。もともと国連の安全保障システムは、まず、加盟国の間でお互いに侵略しないという約束をします。
それにもかかわらず、どこかの国が侵略行為をしたときは、その他のみんなでこれを抑えていきましょう。なるべく軍事的な手段は採らないで、経済制裁とかいろいろな形でやる。けれども、どうしてもそれで何とかならないときには、みんなで軍事力を行使して―――多国籍軍ですね、それを正していきましょうというものです。国連憲章の第七条で決まっています。
国連には常任理事国が五か国からなる安全保障理事会があって、そこで一か国でも拒否権を使うと動きが取れないんですね。しかも冷戦の激化で、集団的安全保障システムが全く機能しなかった。にもかかわらず、その間に地域紛争が起きる。それに対して何とか平和を維持するために、第七条の軍事制裁ではなくて、平和維持活動のために非常に軽い装備の平和維持軍というのを考え、生み出されたのがPKO(国連平和維持活動)です。
PKOは、非常に軽装な平和維持軍と、それから武装しない監視団との二種類でつくられています。国連憲章に規定がないので、憲章第六条の「平和の創造」と第七条の「軍事行動」の中間に位置する「憲章六条半の活動」と言われる平和活動の一つです。
PKOには歴史的に編み出されてきた、主に三つの性格があると言われています。
まず、「非強制的性格」。これは、同意があって初めて出ていくという「同意の原則」、そして「武器使用の制限」「内政不干渉の原則」から成り立っています。
二つ目は「中立的性格」。利害関係国の排除、紛争当事者に対する中立・公正―――どちらが良いとか悪いとかの判断の上で動くのではなくて、紛争当事国に対して中立・公正の立場で行うということ。
三つめは「国際的性格」。これは、例えば国連の指揮下で国連への忠誠義務があるとか、経費を国連の加盟国全体が担うとかいうものです。
一つ一つの活動を見ていくとよくわかるのですが、PKOは非常に苦労しながら、停戦の合意を実行有らしめるとか、その後の復興のお手伝いをするとか、様々な紛争地域に応じた活動を続けてきました。それが評価されて1988年にノーベル平和賞をもらいます。ハマーシャルド事務総長は、「国連の役割は人類を天国へ連れて行く機関ではなくて、地獄へ落ちるのを防ぐ機関である。」と言ったそうです。
ノーベル平和賞をもらうまでのPKOは、植民地支配をしてきた大国の横暴から民族の自決、自立を勝ち取ろうとする紛争の狭間で、まさに人類の一部が地獄に落ちていくことを防ぐ機関として悪戦苦闘してきました。そして、主に五大常任理事国以外の中立的な加盟国から構成されてきたということが非常に大きな特色でした。
しかし湾岸戦争後、PKOは大きな変質を遂げます。軍事的色彩を非常に強めていくのです。例えば「同意の原則」を無視する。湾岸戦争後のイラン・クウェート監視団には、紛争当事国のイランの同意がありませんでした。また構成員には、五大常任理事国がそっくり入っている。
1991年7月のロンドンサミットでは、国連の軍事的強化が強く宣言されました。PKOは湾岸戦争を境に、アメリカ・西側主導の軍事集団に変質していくのです。
そういう中で、日本ではPKO協力法案が1992年に出されてきたということを考えなければなりません。
ここで、政府はずるいことをします。ちょうどその頃、アメリカの一国支配が非常に強まっていく中で、国連が紛争地域に積極的に関与して重装備な平和執行部隊をつくっていこうという考え方が出てきます。これは1992年6月17日、国連ガリ事務総長の「平和への課題」という文章で出てくるんですが、政府はそれが発表される二日前の6月15日にPKO法案を強行採決しました。
国連が軍理力を強めてきたということになると、PKO法案の反対が強くなる。だからそれを見越してPKO法案を通した。「ノーベル平和賞をもらったPKOは平和の本当の貢献になるんですよ。」ということでいくんですね。
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