ボランティア雑感◆「なにげない日常がいつまでも」
ボランティア  高橋 よしの

                                           
 

 真白の正面に手を広げた女の子の壁画と『ピースあいち』の文字のある建物は、その前を通るたびに、私の眼をひいた。そこに、私は7月からボランティアとしてお世話になっています。
 開館10周年記念誌「希望を編みあわせる」からは、設立にかかわった方の熱い思い、その後設立の熱意を受け継いでこられた方の確かな意思が伝わってくる。
 2か月ですが、かかわることで「ピースあいち」の――平和の灯台として名古屋市名東区に――存在の確かさを感じています。

 私は石川県松任市(現在の白山市)の日本海に近い田舎に生まれ育った。祖母と祖母の姉が嫁いでいるという複雑な家。祖母の姉の夫は病気がちで夫婦には子がない。その後、祖母が弟に嫁ぐ。姉妹は喧嘩が絶えず、夫を亡くしせっせと稼ぐ祖母より、私は祖母の姉の方に懐いでいた。
 明治生まれで、字は自分の名前しか書けないと小学校に行く前の私に話した。それを、切なく悲しく思ったが、毎夕飯前、家の前に腰掛け東を向いて座る姿が忘れられない。風呂や夕飯焚きの仕事を終えると実家のある方に向かって座るのが日課だった。時折おばばは、そばの私に「富山空襲の時、東の空が赤く焼けて、おっそろしかったぞ」と話してくれた。

 

 小学校1、2年生は竹垣尚子先生が担任だった。母より少し若いスラックスがよく似合う女性。黒板に書く字がとても上手で、私もうまくなりたいとあこがれた。冬休みに書きぞめを習いに、先生のお宅の寺に通った。雪がふっても2キロ余りの雪道を歩く。先生は私の手を握って筆の運び方を教えてくれた。
 「竹垣先生大好き!どうして先生結婚しんがや(しないのか)」と母に聞いた。先生の結婚相手は戦争に行って戻ってこないのだと教えてくれた。それでドクシンか…、小学生の私の胸がキュウと痛んだ。

 

 大学1年生の冬、サークル劇団で『ゼロの記録』(大橋喜一作)を中小企業センター(現在のウインクあいちの場所)で上演した。
 原爆投下後の広島で被爆者を診察する町医者を主人公にした劇。診療していくうちに原爆投下の被害の実相が見えてくる。身を粉にして診察を続けるがむなしく死は訪れ、妻も白血病で亡くす。が主人公の診療は続くという話だった、と思う。
 ヒロシマのことを知らなくてはとみんなで調べ、本を読んだ。『広島・長崎の原爆災害』(広島市・長崎市原爆災害誌編集委員会編)を読み、あまりにもむごい写真に、自分には劇を作れるのだろうかと思った。私は娼婦の役をもらったが、稽古の途中で、理由は後でわかるが、私と老婆役の友だちがチェンジ。どちらも演じられる自信などない。老女の私が、小津先生に診察してもらっている所に、娼婦が「最近どう?私、具合が悪くなってね」とやってくる場面を演じる。劇を見た姉は「北林谷栄みたいだったよー」と私のことを褒めたが、20歳前の私にはあまりうれしくなかった。
 自分の出番が終わり、メイクを落とそうと楽屋に急ぎ、「ああ、終わった、終わった」と言う私に、主人公の小津先生は言下に一言「芝居はまだ、おわっていない」。本当に自分のことしか考えていないおのれに、猛省した。

 

 稽古場の一コマ。アメリカの調査機関ABCCは被爆者を集めて検査するが、治療をしないということが分かりはじめ、被爆した広島の人たちは怒っていた。町医者のところに来たGHQのアメリカ人に、診療所の人たちが罵声を浴びせかける場面の練習だった。「アメリカーは、出てけ!」と、大声を発したら、どっと爆笑が起き、稽古が止まった。私の思い切りの大声にみんなびっくり!だった。

展覧会場の様子1
 
展覧会場の様子1

 

 1974年の『ゼロの記録』上演は私がヒロシマと出会う初めての経験だった。劇作りに関わる若者たちは真剣に戯曲に向き合い議論し、伝わる劇にと創造した。そんな中に自分がいたことを、失敗を含めて覚えている。原爆・戦争に真摯に向き合う人がいる、ことを学んだ。

 

 今まで見聞きした経験の小さなひとつひとつを胸に、知り、学び、考え…できることから始めようと、「ピースあいち」の展示室の隅にすわります。

 家の庭に、牡丹が咲く(写真がその花)。4月中旬から5月初旬。くれなゐというより濃い桃色の花がまず初めに庭を華やかにする。最後に厳かな白い牡丹が咲く。肥料を適切な時期に、たっぷりやると、美しい色をさかせることが最近やっとわかった。そろそろ葉柄を切り来年の芽を選ぶ時期になる。来年も、これからずっと何にもおかされず、美しい花を咲かせてほしい。花を愛でる、何気ない日常がいつまでも続くことをいのる。

 

くれなゐと真白とならびさく花の牡丹も君を寿ぐが如        (正岡子規)