◆豊川海軍工廠の記憶 8月7日大空襲
ピースあいち語り手の会 都築 基雄
2階プチギャラリーで開催中の展示「都築基雄・絵で語る戦争体験と平和への思い」
1945年8月6日昼休み、同級生3~4人で立ち話をしていた。「広島に変な爆弾が落とされたらしいな」「どんな爆弾かな」「変な爆弾だそうだ」「ここは大丈夫かな」「松林の中だから上からは見えないだろう」「大丈夫だ。多分」
ところが、その翌日 8月7日―。
私は寮で眠っていた。「空襲だーッ」「爆弾が落ちたーッ」「逃げろーッ」。私はこの叫び声に驚いて飛び起きた。寝間着のまま、方向も定めず、夢中でとび出て、走った。「ドカーン」「ダーン」などともの凄い爆弾の音だったと、後日友達から聞いたが、その時には、私には何の音も聞こえていなかった。音も分からず、爆弾の落とされた方向も分からず、ただ夢中で、必死で逃げたのだ。私が寝ていた寮と爆弾が落とされた工場とは少し離れていたので、私は助かったのだ。その時工場の中にいた同級生2人がその爆弾で死んだ。今もその同級生、私の一番の仲良しの同級生のことが忘れられない。想い出すと涙が出てくる。
米空軍爆撃機124機の26分間の爆撃。
250キロ爆弾3250発で死者は2544人であった。
何十年か後に、亡くなった親友の墓参りをして、親友の母親にお会いした時「どうしてあんたは助かったの?」と言われた。その言葉が今も頭にこびりついている。