空襲遺跡を調べて 運営委員 野田 隆稔
知らないままに通り過ぎていた
企画展「この街に爆弾が降った~名古屋大空襲から70年」のメンバーに参加して、名古屋市内の空襲跡を調べることになった。「ピースあいち」のボランティアをする前から、市内の社寺を歩いて歴史を調べていた。社寺を歩いていると、慰霊碑や忠魂碑があり、そこに供花(くげ)されているのを見ると、戦争の傷は未だ人々の心に残っているのだと思い悲しくなる。慰霊碑や忠魂碑には裏面に説明があるので、何時の戦争なのかわかるのであるが、今回調べた空襲跡にはほとんど説明がないので、知らないと通り過ぎてしまう。

瑞穂区の龍泉寺の顔面の欠けた地蔵
瑞穂区の御剣(みつるぎ)町に八剱(やつるぎ)神社がある。八剱神社の一の鳥居には爆撃の余波で削られた跡が残っている。私はこの学区に住んでいて、八剱神社は遊び場所の一つであったが、鳥居の傷が空襲で受けたことを今回調べるまで知らないでいた。小学校時代の友人に電話して聞いてみたが、彼も知らなかった。母校御剣小学校自体が、空襲で焼けたことも知らなかった。古老から話を聞かされていたり、説明板がないと空襲の跡であることを知らないままに通り過ぎていってしまう。

昭和区五軒家にある壇渓勝蹟
昭和区に村雲町がある。私はその近くの学校で13年間教えていたが、社会科教師たちで、学校周辺の社寺、古くからある漬物工場(御器所大根として有名)や秀吉の母親の生誕地(ここには市の教育委員会が建てた「伝豊臣秀吉母宅跡」という掲示版がある)を歩き、地域の歴史を学んだのであるが、村雲小学校の近くにB29が墜落したことも、西福寺の標柱が爆撃を受け破壊され、それが残っていることは誰も知らなかった。もし、在職中にそのことを知っていたら、HRの時間に生徒を連れて見に行くことができたのにと思うと残念でならない。
名古屋城の天守閣への入口の近くに、わずかに黒ずんだ石垣がある。よく見ないと黒ずみはわからないが、それは1945年5月14日の空襲で、名古屋城が炎上した時の炎で石垣が黒く焦げた跡である。説明してある掲示板もないので、入場者は知らないまま通り過ぎてしまう。
空襲遺跡を調べていて、説明した掲示板があるのはまれで、ほとんどが放りっぱなしである。物が訴える力は口や文章より迫力がある。平和公園の徳川宗春の墓石や緑区の鳴海にある丹下の常夜灯のように修復されて傷跡がわからなくなっているものもあるし、民間のものは取り壊されてしまう可能性もある。70年たった今も、空襲遺跡が残されているということはすごいことである。説明掲示板を設置して、道行く人にも解るように保存していくことが大切である。
一つのドラマがあった

B29がこの近くに落ちた。
先に、村雲小学校の近くにB29 が墜落したことを書いたが、それを調べていて、秘せられた一つのドラマがあったことを知った。「B29撃墜死亡搭乗員虐待戦犯事件」である。これについては『名古屋戦乱物語』(中西董著 文芸社刊)で明らかにされているが、「墜落した米兵の遺体が多くの市民の目にさらされ、怒り狂った市民が遺体に殴る蹴るの暴行を加えた」という事件である。
占領軍は交戦国の軍人や捕虜に虐待を行った者は「BC級戦犯」として、軍事裁判にかけていた。米軍はこの事件に強い関心を持ち、調べ始めた。中西さんの父は、戦犯として多くの市民が逮捕され、裁判にかけられることを恐れて、知事を巻き込み多くの人々と協力して偽装工作を行ったのである。この偽装工作には南山大学初代学長のパッペ神父が関っていた。偽装工作はあっけなく見破られたが、占領軍が「軍関係者以外の一般市民の戦犯容疑はしない」と方針転換をしたことによって落着した。空襲で被害を受けた人たちにはそれぞれの物語があるが、これも一つの物語である。人々の物語を紡いでいくことも空襲や戦争を風化させないために大切な事である。
先日亡くなったヴァイツゼッカー氏の「問題は過去を克服することではありません。さようなことができるわけはありません。後になって、過去を変えたり、起こらなかったことにするわけにはまいりません。しかし過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります。非人間的な行為を心に刻まない者は、またそうした危険に陥りやすいのです。」の言葉を忘れてはいけないと思っている。