信州・安曇野教育の源流(その3 安曇野の風土と上原良司)
-井口喜源治、相馬黒光、荻原守衛、上原良司、そして平塚らいてう- ピースあいち研究会 丸山 豊

          
   



 第3回は、「俺が戦争で死ぬのは、愛する人たちのため。戦死しても天国に行くから、靖国神社にはいないよ」と語り、密かに心の中で「愛する冾子(きょうこ)ちゃん」と叫び続けた特攻学徒兵、上原良司の自由主義を安曇野の風土が生んだ「知」から考えます。
  ただ単にロマンス、感傷に終わらせることなく現代への歴史的警鐘として探っていきます。

7. 安曇野の風土と上原良司*

絵はがき

松本中時代の上原良司1922- 1945

  さて、安曇野・穂高が生んだ上原良司を取り上げる。(彼は慶応大学在学中、学徒出陣で特攻隊員となり、1945年5月11日戦死。出撃前夜に最期の遺書となる「所感」を残した。注*参照)

 改めて『きけわだつみのこえ』の若き学徒兵の遺書などを読んでみると、皆二十代前半とは思えない知性の高さに驚かされると同時に一つの疑問がわく。
 上原のような優れた知性を持っていた若者たちが「本当に納得して不条理な死を受け入れたのか」という疑問である。
 この疑問を探りつつ、上原良司と井口喜源治、相馬愛蔵、黒光らとの接点を安曇野の地域と平和、文化から考えたい。

 良司は、クローチェ*の自由主義に感銘し、世界史の中に日本を位置づけて全体主義を批判するに至った。屈辱的で非人間的な訓練の末、自由主義の勝利を確信して戦死した。
「明日は自由主義者が一人この世から去っていきます。」と書き終えて。

「俺が戦争で死ぬのは、愛する人たちのため。戦死しても天国に行くから、靖国神社にはいないよ」(中島博昭『あゝ祖国よ恋人よ』(信濃毎日新聞2005.)これは遺書ではなく「記憶された会話」の一部だが、単に恋人への想いに留まらず、靖国を拒否した特攻隊員の存在は今も驚きである。

 良司は「なぜ、自分は特攻隊員として死ぬのか」を考え続け、その答えを自由主義こそ人間の本来的な生き方の根源であり、これを否定するものは必ず敗北する、と結論づけた。
 最期は自由の勝利を確信して死んだ。

 一方、人間らしい自由とは人を愛する自由でもあった。良司は心の恋人であった幼なじみの石川冾子への愛を、最後のバイブルに等しかった羽仁五郎著『クロォチェ』に託した。活字をところどころ○印で囲んで、「きょうこちゃん さようなら 僕はきみがすきだった」と独白し、死の恐怖から自分を解き放った。遺書と所感は、良司の知性と深い教養を感じさせ、読む人の心に響く。

【上原良司の遺書】
「私ハ明確に云へば、自由主義に憧れてゐました。日本が真に永久に続くためにハ自由主義が必要であると思ったからです。之ハ馬鹿なことに聞えるかも知れません。
それハ現在日本が全体主義的な気分に包まれてゐるからです。併し、真に大きな眼を開き、人間の本性を考ヘた時、自由主義こそ合理的なる主義だと思ひます。
 戦争において勝敗を見んとすれバ、その国の主義を見れバ事前に於て判明すると思ひます。人間の本性に合った自然な主義を持った国の勝戦(かちいくさ)ハ、火を見るよりも明(らか)であると思ひます。
(中略)私の理想ハ空しく敗れました。この上ハ只、日本の自由、独立の為、喜んで、命を捧げます。(後略)」 (岩波文庫『新版きけわだつみのこえ』より)

 中島博昭氏は、その著で、良司の「所感」に隠されるメッセージの中に安曇野の風土、すなわち明治の自由民権運動、キリスト教的社会改革、非戦・反戦、社会主義思想、大正期の自由教育、大正デモクラシーを見ようとしている。「その思想形成のルーツを探る」として、良司の祖父、上原良三郎(1866―1907)を自由主義的思考から取り上げている。 要約する。

 祖父良三郎は安曇野で荻原家に生まれ、その後、母の実家松本の川舟家で育ち、長野師範(松本校)卒業後、上原家の婿養子となり上原良三郎となった。複雑であるが安曇野、松本の風土の中にあったということである。

  松本一帯は明治時代自由民権運動が盛んであり、良三郎の兄は民権結社に加入、妹も自由民権運動家に嫁ぐなど良三郎も自由の思想の影響を受けている。
  松本地区の島内小学校の校長時代、キリスト教徒である望月直弥*を自分の学校の教員として招いたが、その望月が深く交流した人物が相馬愛蔵、井口喜源治であった。望月は東穂高禁酒会に学び、赴任した学区に島内禁酒・禁煙会を組織、活動を開始した。望月は内村鑑三の非戦論に共鳴し日露戦争批判を展開したため、ロシアスパイと疑われたらしい。その時、上原良三郎は望月の思想と自由を守った。 信州の自由と非戦の思想の流れがここにある。(以上要約)

絵はがき

上原良司の石碑(長野県北安曇郡池田町)
左から建立の趣意、「所感」、良司の略歴(池田町HPより)
2006年9月27日 上原良司の誕生日に建立

 さて上原良司が祖父の良三郎の影響をどこまで受けたか定かではない。中島博昭氏によれば、良司は、ファシズムを批判し弾圧を受けた自由主義者・河合栄治郎*を尊敬したという。
 研成義塾出身で井口喜源治の教え子でもある安曇野出身の清沢洌(きよし)*も自由主義者の一人だ。清沢も戦争の時代に逆らった。良司も日本を全体主義と批判し、その敗北を予想し、将来の社会の在り方を国民に託した。良司と清沢の直接的な接点はないが、安曇野の乳房橋を挟んで隣どおしの村で育った二人は、世代は違っても国家から危険とされた自由主義の立場を同時代に貫いた。そして共に敗戦を目前にしてこの世を去った。 

 小林多喜二が虐殺された後、自由主義者までも投獄され拷問されるようになった日本、また自由な思想、文化も奪われた時代にこのような人物がいたのだ。
 良司や清沢の源流に安曇野があり井口喜源治、相馬愛蔵とその先に木下尚江や内村鑑三があった。

絵はがき

良司の「所感」碑
このモニュメントに包み込まれるように有明山が見える。
ここからの安曇野の展望は最高だ。
絵はがき

碑文は「所感」の抜粋引用
絵はがき

建立の趣意文 歴史を踏まえた格調高い碑文。
この趣旨から、はかりしれない思いが読み取れた。
絵はがき

【良司の「所感」碑と建立の趣意文】

  碑は上原良司が生まれた北安曇郡池田町の公園にあり、そこからは北アルプス、安曇野はもちろん遠くは松本方面も一望できる。正面に座る有明山は良司の故郷安曇野の象徴である。
 この碑文の建立趣旨を読みながら、「碑をつくる会」のメンバーの怯まない平和への意思とそれを支えた安曇野の風土を改めて感じた。建立にあたって「所感」のどの部分を引用するか、趣意文の中身に何を盛り込むか、何を伝えるか、突っ込んだ論議がなされたことだろう。
「多数の国民が戦争に駆り出され」「平和な時代の到来を願い」ながら「無言で逝った」・・・ここに刻み込まれた文には本音の遺言を書けずに死んだ多くの若者の無念の思いが読み取れた。「所感」を残すことができた良司の自由主義は、彼一人の思想ではないことも感じさせる。
 碑を見ながら「なぜ若者を死に追いやってしまったのか」「もし彼らが戦争の犠牲にならなかったなら」、と思わずにはいられなかった。

 「世界に尊敬される国になって欲しい」彼らのこの願いは戦後日本国憲法として結実された。良司は書いている。「国民の方々にお願いするのみです」と。私たちは彼らの悲壮な願いに応えてきたのか。今日本は本当に自由で平和な国になったのか。この碑は今なお、私たちに大きな課題*を突きつけているのではないか。

 その課題とは、感傷に終わることなく「いったいなぜこの戦争がおこったのか」をきちんと振り返り、自分自身が歴史に向き合っているかどうかにある。良司は悩みながらも自由主義を以て、あの戦争の歴史的本質を見抜こうとしていたのだから。
                                (つづく 第4回は「出会いと広がり」)

絵はがき

信濃毎日新聞 2010年5月12日 井口喜源治記念館所蔵
何も知らない石川冾子は別の男性と結婚。その二ヶ月後、病死した。
 良司は妹からの手紙で彼女の死を知った。
 安曇野穂高有明の実家に帰郷した際、彼女の写真を手に入れ、出撃のため故郷を離れた。


*ピースあいち夏企画「戦争と若者」:上原良司の分析と展示担当は、河原忠弘氏が担当した。取材内容をはじめ文献・資料収集など深く掘り下げた展示であった。

*上原良司(1922~1945):安曇野池田町生まれ。有明で育ち、有明尋常高等小学校から松本中(現長野県立深志高校)へ進み慶応義塾大学経済学部に入学。在学中の1943年学徒出陣で特攻隊員となる。1945年5月鹿児島知覧から沖縄に向けて特攻出撃、同月11日22歳で戦死した。イタリアの歴史家・クロ-チェの自由主義に傾倒し、日本の敗戦を確信し出撃前に「所感」(遺書)を遺す。これは『新版きけわだつみのこえ』(岩波文庫)の冒頭に掲載されている。「一器械である吾人(ごじん)は何もいう権利もありませんが、ただ、願わくば愛する日本を偉大ならしめられん事を、国民の方々にお願いするのみです」。あの戦争の実態と若き学徒兵の「生と死」の強いメッセージとなっている。

*クローチェ(Benedetto Croce、1866 ~1952):イタリアの哲学・歴史学者。反ファシスト、自由主義の立場からファシズムを批判した。「自由なくしては人生は生きるねうちを失う‥‥。自由とは人間性のことである。」

*河合栄治郎(1891~1944):東京出身の経済学者、社会思想家。新渡戸稲造や内村鑑三の影響を受けた。東大経済学部教授として自由主義の立場からファシズム、軍国主義を批判したため右翼、軍国主義者の攻撃を受け1939年休職処分とされる。自由主義までが危険思想とみなされたこの時代に上原良司は1942年に慶応の経済学部に入学している。良司は学徒兵訓練中に河合栄治郎の死を知った。中島博昭氏によれば、良司は、尊敬していた河合の死(1944.2)に対し、石川冾子の死(1944.5)と並ぶほどの大きな衝撃を受けたという。翌1945年に良司も戦死している。

*清沢洌(きよし)(1890~1945):安曇野、北穂高生まれ。井口喜源治の研成義塾に学びアメリカで苦学して、帰国後朝日新聞記者から外交評論家となり自由主義の立場から戦争を食い止められなかった日本外交を批判し敗戦を予想した。戦争中の日記「暗黒日記」は中高歴史教科書にも登場する。石橋湛山に並ぶ自由主義知識人であった。「戦争屋こそが非国民だ。国民が非国民であるはずがない」と非国民とののしられた人々を励ましたという。

*望月直弥(1870~1918):穂高生まれ、キリスト教徒となり井口喜源治らと東穂高禁酒会を組織。東穂高小学校で井口喜源治と共に教鞭をとっている。井口と同様、内村鑑三の影響を受けた。上原良司の祖父上原良三郎が校長をしていた松本島内小学校に1901年4月に代用教員として赴任した。後に社会主義者となる山本一蔵は彼の教え子で最も望月の感化を受けた一人。研成義塾、上原良三郎、日露戦争批判とつながる人物だった。近代日本画家でもあった。荻原碌山は望月の絵画理論を学んだという。

*大きな課題:日本国憲法前文の理念が覆されようとしていること、また歴史的事実を相対化し、両論併記などの手法で歴史事実の抹消を迫ろうとする流れも含む諸課題。直近の一例として2014年、長野市が「松代大本営地下壕」跡の入り口に設置した説明版の一部をテープで覆い隠した問題。「朝鮮の人々が労働者として強制的に動員され」の「強制的」の部分を隠した。(2014.10.10現在の報道によると批判を受けた長野市教育委員会が再検討を表明。 10.22の信濃毎日新聞によると「多くの朝鮮や日本の人々が強制的に動員されたと言われています―。」と検討結果を発表した。歴史事実を曖昧な伝聞表現で相対 化し幕を引いた。)



参考文献
穂高中学校編『孜々として 安曇野・穂高町の人物群像』(穂高町教育委員会 2000.11)
井口喜源治記念館『安曇野人間教育の源流』(同記念館 2003.10)
中島博昭『あゝ祖国よ恋人よ』(信濃毎日新聞 2005)
市民タイムズ編 『臼井吉見の『安曇野』を歩く』上中下巻(郷土出版社 2008)
安島太佳由「上原良司と特攻隊 写真展開催記念ブックレット」(2010.5)
井口喜源治記念館『井口喜源治と研成義塾』(2011)
亀岡敦子「人間の戦争遺跡・上原良司」(山田朗監修『本土決戦の虚像と実像』高文研2011.8 )
日本戦没者学生記念会編『新版きけわたつみのこえ』(岩波文庫 2013.5)
宮澤正典『清沢洌の自由主義-昭和戦時下を中心に-』(安曇野市文化講座実行委員会2013.11.10)
日吉地下壕保存の会会報第114号(日吉地下壕保存の会2014.2.14)



引用写真、新聞
・上原良司全体記念碑:長野県安曇郡池田町公式HPより
・信濃毎日新聞(2010.5.12):井口記念館蔵