二つの観音様 
「千手観音が、南京市に送られて、平和堂に安置されるまで」 ボランティア   野田 隆稔



朗読会

 9月22日、ピースあいちで、歴史学習会「千手観音が、南京市に送られて、平和堂に安置されるまで」が開催された。平和公園の平和堂に安置されている千手観音の伝来にまつわる話しを高木傭太郎さん(歴史研究者・愛知東邦大学非常勤講師)は、古い膨大な資料をもとに、話してくださった。


山田昌さん

十一面観音

 平和公園の平和堂の中に、二つの観音様があることを知らない人が多い。平和堂が一般公開されるのは桜の季節と春と秋のお彼岸だけ、それも新聞やテレビやラジオを使って知らせるわけでもないので、知らない人が多いのはあたりまえだ。
 お堂の中には、南京の毘盧(びる)寺から送られてきた千手観音像と、日本から毘盧寺に送られた10メートルの十一面観音像のミニチュアが置かれている。
 1941年3月、南京には日本との和平を目指す汪兆銘政権(南京政府)があり、名古屋から高さ10メートルの木彫の十一面観音立像が贈られました。これは伊藤和四五郎さん(彼が創立した店は名古屋の人は90%が知っているという有名な店である)が、仏師門井耕雲につくらせたものであり、伊藤さんは日中戦争が泥沼化す中、両国の戦没者の慰霊を目的に贈ったもの。しかし、残念ながら文化大革命の中で毘盧寺は焼失、十一面観音像も燃えてしまった。


山田昌さん

千手観音像

 同年6月、南京から毘盧寺の高さ4メートル、金箔の千手観音像が名古屋に贈られて来ました。この仏像は汪兆銘政権から、日華親善の名目で、日本の全仏教徒に対して贈られた物で、十一面観音の答礼という意味があった。
 急きょ、贈られてくることが決まったので、名古屋市では歓迎委員会が作られた。仏像は長崎を経由して名古屋港に、堀川を船によって運ばれ、東別院にひとまず置かれた。6月4日、東別院から、覚王山日泰寺に運ばれた。沿道は動員された人々で一杯であった。
 千手観音を安置するお寺が必要であった。そこで、寄付金を集めて寺を作ろうということになったが、寄付金は思うように集まらず、寺院建築のめどが立たないうちに、戦争が激しくなり、寺院建築どころではなくなった。
 戦後、一時、東区の建中寺に安置されていたが、1964年、平和公園に平和堂が立てられ、千手観音はそこに安置された。千手観音は名古屋に24年目に安息の場を得たのである。
 平和堂の千手観音は、形式は日本の千手観音と同じで、40本の手(正面で組み合わせている手は除く)、1本の手には目が一つ、蓮台にのっているという点は変わらないが、面影、特に目の造形が日本の仏像と違う感じを抱かせる。さらによく見てみると、金箔がはげていたり、痛みが目立つ。やはり、きちんと管理をし、修理する所は修理し、原型を保ちたいものである。