フィリピン平和と歴史の旅 2011、12/23~12/27 吉岡 由紀夫

◆スペイン・アメリカ・日本による植民地化のフィリピン
1521年スペイン船団(ポルトガル人マゼラン)が上陸しました。1542年この地に上陸したスペイン人が,スペイン皇太子フェリペ(のちの国王フェリペ2世)を記念して「フェリペの島々」の意でフィリピナスと命名しました。1655年スペインの植民地となり,以来1521年~1898年、400年近くにわたって,スペイン統治が続きました。
1898年アギナルドを指導者とする反乱軍が独立闘争を展開。アギナルド政府はキューバでのアメリカ・スペイン戦争発生にともない米軍の協力を得てスペイン軍を一掃しました。独立を宣言したのもつかの間,パリ条約によってフィリピンの統治権をスペインから獲得したアメリカは,独立宣言を無視してフィリピンを支配下におきました。1934年アメリカ議会は10年後のフィリピン独立を承認しました。
1941年12月8日に日本軍がルソン島のバギオを空襲し、1942年1月にはマニラを占領しました。日本はアメリカを降伏させ,フィリピンを3年8ヶ月間に及ぶ軍政を行いました。フィリピン戦で63万人の兵士を投入し,アジア・太平洋戦争のなかでも最も多い50万人以上の戦死者(日本全体では300万人~350万人)を出しました。
1945年2月,アメリカはマニラを日本から奪還し、1946年,フィリピンはやっと念願だった独立をしました。
◆マニラ市内観光へ
名古屋から4時間40分で(日本との時差マイナス1時間)マニラに着きました。
マニラの気温29℃(午後2時頃)、乾期に入り木陰は過ごしやすい。
市内は23日午後からクリスマス休暇のためか渋滞です。見学先はインストラムロス(16世紀,スペインによりフィリピン統治のために建てられた城壁都市。当時はスペイン人とその混血しか住むことが許されなかったという)。城壁の中にはロマネスク風建築物が多く建てられていたが、アジア・太平洋戦争でほとんど破壊され,日本の憲兵隊本部として使われていた建物も銃弾の跡が生々しく残っていました。
マニラで一番大きな教会,マニラ大聖堂や世界遺産サン・アグスチン教会などを見学しました。
サンチャゴ要塞には、第二次大戦中に数百人ものフィリピン人とアメリカ人が日本軍によって地下牢に投獄され命を落としました。左手奥にはリサール記念館があります。ホセ・リサール(フィリピンの独立の英雄として愛されています。スペインの支配に苦しむ祖国に自由と正義を取り戻そうと、悪い権力者や聖職者と真っ向から戦いました。1896年35歳の時,無実の罪でスペイン軍に銃殺)が,処刑されるまでの最後の2ヶ月間拘束されていた部屋や処刑場までの足跡が再現されていました。サンチャゴ要塞の地下は,日本軍が第二次大戦中に捕虜収容所とした地下牢も残っていました。
◆コレヒドール島へ

マリンタ・トンネル
コレヒドール島総面積は約7.8k㎡,最大幅800m,最高地点200mの岩質性の火山島で島民は約200人。マニラ湾の入り口に位置するため,古くから戦略上,重要な役割を担ってきた島です。戦後は,国防省の管理下で,米国政府の援助を受けてマリンタ・トンネルの修復や太平洋戦争記念館などが建てられました。現在はフィリピン観光省が中心となって戦争遺跡と観光施設を備え、ガイドも英語と日本語の両方が用意されています。マニラとコレヒドール間には,日本製の高速艇(120人乗り)が就航しており、1時間30分で行くことができます。毎日1往復,土・日・祭日は2往復しています。
アメリカは1941年の日米開戦前までに島全体の要塞化を終了した。1942年5月の日本軍上陸時と1945年の2月~3月のアメリカ軍奪還時には島内で激しい戦闘が展開されました。1942年アメリカ降伏時には、米兵9000人とフィリピン兵2000人が日本軍の捕虜になりました。1945年の戦闘では,米軍が上陸し日本軍は玉砕状態で、約6000人の守備隊のうち生存者は20名前後でした。
アメリカ・フィリピン連合軍も多数の死傷者を出し,日本軍の爆撃により島内の草木・動物も「生物は一つとして存在しなかった」と言われるほどの焦土と化しました。戦争遺跡見学の最初はマリンタ・トンネルです。トンネルはアメリカ・スペイン戦争(1898年)後は,米軍の保留地として徐々に補強され、1922年には兵器貯蔵庫として完成させた。長さ835フィート(1フィート=30.48㎝),幅24フィートである。24本の横穴を持つ。戦争中はアメリカ軍の司令部として使われ,負傷兵のための病院(1000ベッド)としても使われました。1945年米軍に追いつめられた日本軍はトンネル爆破し、多数の日本軍兵士が死亡しました。現在のトンネルは1976年に修復されました。トンネルにはいると、「光と音のショー」で各横穴に大戦時のできごとを、等身大の人形や道具、画像で再現しています。爆弾の破裂音はトンネル内に鳴り響き当時の様子を思わせるものです。ハリウッド映画のロケ現場のような見学でした。
島内には、米軍の3階建てコンクリート造りのミドルサイド兵舎、米軍司令部、マイロング兵舎が爆撃され破壊されたままの状態で保存されていました。各所に砲台や弾薬庫が見られました。米国政府が建てた太平洋戦争記念館やレイテ海戦の途上撃沈された戦艦『武蔵』の乗組員慰霊碑,石像の慈母観音像を見学しました。米軍にとっては奪われ、奪い返したコレヒドール島、日本軍にとっては奪い、奪い返されたコレヒドール島。現在は、やっと自国のものになり、フィリピンの観光資源の目玉になっています。
◆スービックヘ

デスマーチ(死の行進)の標識
マニラからバスで約3時間30分かけて,米海軍基地があったスービックに向かう途中、「バターン死の行進」のデスマーチの標識を見ることができました。東京裁判の連合国軍調査によると米兵11000名,フィリピン兵・民間人62000名が『行進』させられた。ガイドのバージさんの叔父も米軍の基地で働いておられ「死の行進」の体験者です。耳を負傷して,戦後「補償を求めたが,日本とマルコス政権との交渉で国には賠償金が支払われたが,個人補償はまだされていない」そうです。食料不足,熱帯病等で限界状況で捕虜となった兵士たちは8月1日までに,米兵1522名,フィリピン兵29000名が亡くなったといわれている。捕虜たちが行進した道沿いに,この行軍によって倒れて死んでゆく様子を絵にした標識=デスマーチ(死の行進)は1km~2kmごとに点々と置かれています。亡くなった兵士の遺族によって建てられたものです。
スービックに着き,Metro Subic Network for Bases Clean―upの方々と交流しました。スービック海軍基地,クラーク空軍基地は1991年~92年に,アメリカからフィリピンに返還されたが,スービック基地はアジア・太平洋地域で最大の米国海軍基地でした。いま同地は経済特区,自由貿易港,観光地として発展の道を歩んでいますが,交流会では深刻な汚染被害の問題,女性関係問題等について取り組みを聞きました。
◆バターン原発

バターン原発
スービックからバターン州モロン町にあるバターン原発の見学に出かけました。首都マニラから直線距離で80kmバターン州モロン町にバターン原発(面積357ヘクタール)があります。海に面しており日本の原発と同じように立地しており、原発のそばには活断層があるとのこと。出力62万キロワットの予定で1984年に完成しましたが、一度も稼働することはありませんでした。いまは屋根の損傷も激しく,雨が降ると、タービン建屋は水浸し状態になるようです。施設にはいると古びた印象で管制室にも入ることができ、計器類は完成当時のままで、制御棒をのぞきこむことができました。見学では施設内は自由に公開され制限されることはありませんでした。原発で働いている人は施設内では1人ぐらいしか姿を見ることはありませんでした。
原発建設の経緯は日本とよく似ています。当時、米軍の基地が置かれていたフィリピンはアメリカと密接につながっており、戒厳令下,独裁政権のマルコス大統領時にバターン原発を着工しました。原発反対の取り組みは戒厳令下1981年に非核フィリピン連合(NFPC)が誕生しました。今回の旅行でスービック、バターン原発の案内説明をしていただいたコラソン・フォブロスさんは弁護士であり1986年からNFPCの事務局長として行動されました。コラソンさんは「バターン原発はマルコス政権の汚職の象徴でした。米国は米企業の利益と軍事基地維持のために、腐敗した独裁者であってもマルコスを支えるのだと多くの国民がしっかり認識して、運動が広がったのです」と語りました。1984年には核燃料が搬入されましたが、反原発、マルコス退陣でゼネストが行われました。
1986年にマルコス政権が打倒され、アキノ政権が誕生し、アキノ大統領はバターン原発運転前に閉鎖しました。ちょうどチェルノブイリ原発事故が起こり原発の安全性が問題となっていた時期でした。
1987年に新憲法が制定されましたが「国家の非核兵器化」を憲法で明確にうたっています。原子炉をもつということは核兵器製造も可能ということにもつながります。1997年には核燃料がドイツ企業に販売され、2003年からバターン原発の公開が始まりました。バターン原発を再開させようとする動きは再三起きており、2008年に即時運転開始法案が国会に提出されましたが、国民の反対運動が起こり法案は廃案となりました。さらに2011年にはバターン原発修復に10億ドル(800億円)をかけ、その費用を借款と電気料金値上げでまかなうというものでした。この動きに決定的な打撃となったのが3月11日に起きた福島原発事故でした。「フクシマを繰り返すな」をスローガンに市民の原発反対の運動が広がり、多くの国会議員が反対し、原発推進派の議員は議会内で少数となりました。政府は「バターン原発を観光名所にしたい」(観光省)と考えるようになってきました。しかし、バターン原発の施設の説明では、現在フィリピンで「国内で16箇所に原発をつくる計画」もあるということでした。
昼食をかねて、Bataan Nuclear Power Plantの方々と交流会をもちました。
フランシスさん(男性、原発反対組合)
「原発を博物館にしておき、使用されていないようにするために、学生、教師、住民が組合に入り10年戦った。国内で新たな原発をつくる計画があるが大反対である。原発を残すことは戦争である。残せば被害者も出るだろう。若い人たちの反対もふえている。戦争になれば大きな闘いを進める。世界の国にも知らせたい。」
カルメンさん(女性高校教師)
「原発の計画・建設は秘密であった、最初に情報をつかんだのは宗教者組合で、神父が各村に入り、原発の危険性を伝えた。1985年には、学校、店・公務員、住民がストライキを行った。軍隊がライフルをもって弾圧に出てきたが、母親たちが『撃つなら私たちを先に打て』と抗議すると兵士たちはライフルを降ろし撃てなくなった。撃たれて死んでもたくさんの女性が後ろでサポートをしてくれる。女性の強さが一番である。」
エミリーさん(若い女性)
「最初から戦った先輩たちは私たちのアイドルです。世界に原発は多いが、いいことは一つもない。福島の原発事故が伝えられ多くの人が目を向けている。村では教育されていない文盲の人が多いため、ビデオ機器が役に立つので支援がいただきたい。」
質疑応答で「私たちは原発の施設をなくしたいが、日本でもそういう闘い(力がある)ができますか」と問われました。命がけの闘いを進めてきたフィリピンの人たちの質問だけに、原発の危険性に対してどれだけ真剣に、考え行動してきたかを交流会に参加したひとり一人に問われていることを強く感じました。交流会の最後に、現地の人の歌の歌詞が心に残りました。歌詞は「フィリピンはスペイン・アメリカ・日本など、いろんな国に支配されてきた。かごに入れられた小鳥も、逃げる方法を持っている。人間はそれ以上の力がある」の内容です。
今回の『平和と歴史の旅・フィリピン』に参加した理由は、ひとつは昨年『ピースあいち』を見学された元米兵夫妻が「バターン死の行進」をさせられ、四日市市に連れてこられ強制労働をしたことなどを語られたこと。生還が望めない無謀な特攻作戦がフィリピンのレイテ戦において作戦の幕が開けられたことなど、多数の戦死者(日本人・アメリカ人・フィリピン人等)を出したアジア・太平洋戦争でのフィリピンの戦跡。二つ目は、バターン原発の見学、原発を動かさない、廃止する取り組み状況。撤廃された米軍クラーク基地・米軍スービック基地に関わる課題や問題点。フィリピンにおける戦跡、原発、基地は、フィリピンの人たちの平和で安全な生活をもとめた取り組みの上に成り立っていることを強く感じました。
一度戦争が始まってしまえば止めることができません。今回の福島の原発事故(?)も同じことがいえるかもしれません。アジア・太平洋戦争を知ることは、今を知ることにつながり、さらに未来へつながっていきます。そのためにもアジア・太平洋戦争や福島原発の爆発事故からさまざまなことを学びとることは重要なことだと思いました。
(写真提供・金子 力)