◆ シリーズ 戦争を考えるための遺跡 ⑧ ◆ 千種公園に残る傷ついたコンクリート壁
金子 力
名古屋市千種区若水1丁目に千種公園があります。東西約200m・南北約300mのほぼ長方形の形をしています。公園の東は若水公務員住宅や名古屋市営住宅仲田荘などの公共用地になっています。公園の南は名古屋市立東部医療センター(旧名古屋東市民病院)・市立若水中学校・県立千種聾学校が並んでいます。こうした公共用地がひとかたまりに存在していることは名古屋市中心部では稀なことです。
千種公園に残る爆撃で傷ついたコンクリート壁(2010年)
公園の一角に古いコンクリート壁が保存されています。近づいてみると、穴があいて中の鉄骨が見えるものもあります。ここに一体何があったのでしょうか?
コンクリート壁の説明文には、「第二次大戦の末期、再度の名古屋空襲はこの地にあった名古屋陸軍造兵廠(しょう)千種製造所に甚大な被害を与えた。この碑は、その爆撃による痕跡を残す外壁の一部を移設し戦争の遺跡として残したものである。」と書かれています。コンクリート壁の穴は爆撃によってできた傷跡だったのです。
千種製造所へ中央線からの引き込み線も見える
昭和14年『名古屋市街全図』 六楽会
千種製造所はいつできたのでしょう?
『名古屋陸軍造兵廠史・陸軍航空工廠史』(1986)によると、1919年(大正8年)に発足しています。第1次世界大戦で新兵器として登場した飛行機の国内生産を進めるために設置されたのです。これまで飛行機生産に取り組み始めた『熱田製造所』で機体を生産し、千種製造所で発動機(エンジン)を生産するという分業が行われます。その後、大量生産をするために、三菱や愛知時計電機などの民間企業にも飛行機生産に参入させていきます。
公園の周辺にある公共施設や用地を含むこのあたりには
陸軍直営の兵器工場がありました。その名前は何度か変わりましたが、最終的に『名古屋陸軍造兵廠千種製造所』と言いました。
「名古屋機器製造所工場配置図 大正9・11・20」
当初は敷地の一部に発動機関係の工場があるのみだった
『名古屋陸軍造兵廠史・陸軍航空工廠史』1986より
1923年(大正12年)関東大震災によって、東京砲兵工廠が甚大な被害を受けると、陸軍は小銃などの兵器生産を名古屋と小倉に分散させます。現在の東部医療センターのあたりに飛行機の発動機工場があっただけの千種製造所は、関東大震災以降は若水公務員住宅や市営仲田荘のあたりまで工場が建ちならび、小銃・機関銃の生産部門が操業を始めます。
関東大震災後、兵器生産の分散化で千種製造所も拡張され、
さらに日中戦争により敷地内の空き地は無くなった
『名古屋陸軍造兵廠史・陸軍航空廠史』1986年より
さらに、1937年(昭和12年)日中戦争が始まると、若水中学校や千種聾学校のあたりにも工場が建てられ、千種製造所の兵器生産能力は高まっていきます。従業員数は1935年(昭和10年)1,403人でしたが、1940年(昭和15年)には12,917人と8倍になっています。その結果、千種製造所は三八式小銃を年間41,800挺を生産する銃器の量産工場となっていきました。
6月26日の千種製造所への爆撃照準点が書き込まれたリトモザイク(工藤洋三氏提供)
また、千種製造所は1945年3月25日、4月7日、同年6月26日の3回米軍機B-29による爆撃を受けて職員だけで74人以上の犠牲が出たといわれています。
なお、千種製造所および隣接していた兵器補給廠について、市邨学園高等学校(現名古屋経済大学市邨高等学校)の2年槙組(1995年時)が聞き取り調査を行い、詳細な報告書を作成しています。今では貴重な資料になっています。