◆シリーズ戦争を考えるための遺跡⑦『ナゴヤドームにある平和のメッセージ』◆
                                           金子 力


 
ナゴヤドーム外観

ナゴヤドーム ( 名古屋市東区)

 ドラゴンズリーグ優勝で湧いたナゴヤドーム。日頃は見落とされがちな「平和のメッセージ」がチケット売り場のそばにひっそりと刻まれているのが見えました。


 「平和への礎になられた人々を忘れません」

プレート

 

 「平和への礎になられた人々を忘れません」と書かれた黒い石のプレートの文面を読むと「ナゴヤドームが建つこの地は、かつて三菱重工業名古屋発動機製作所大幸工場があり、第2次世界大戦下の1944年(昭和19)12月13日に米空軍B-29爆撃機70機の空襲を受け、工場で働く人たち、挺身隊の女性たち、学徒動員の生徒ら300余人の尊い命が奪われました。(後略)」と書かれていました。

モ式飛行機の写真

(1915年(大正4)所沢から大阪に向かう途中
名古屋に着陸したモ式飛行機
名古屋陸軍造兵廠史編集委員会
『名古屋陸軍造兵廠史・陸軍航空廠史』 1986)

 

 名古屋でB-29爆撃機による本格的な空襲がはじまった1944年12月13日に真っ先に爆撃目標となった三菱重工業名古屋発動機製作所。米軍がねらったのは日本の航空機生産をストップさせることでした。

 名古屋は、日本の軍用機生産の歴史と深いかかわりがありました。1917年(大正6)と言えば、第1次世界大戦中であり、ロシア革命が起きた年です。この年、各務原に飛行場がつくられ、陸軍直営の熱田兵器製造所ではヨーロッパのルノーやダイムラーから学んで、機体やエンジンの試作が始まります。ライト兄弟が世界で初めて空を飛ぶことに成功すると、世界は飛行機を新兵器として採用します。日本も第1次世界大戦でドイツ領青島を攻撃する際に、輸入したばかりの軍用機を使い、空からの攻撃をしました。

 第1次世界大戦が終わり、国際連盟が発足した1920年には、新たに千種機器製造所が設置され、軍用機のエンジン生産が始まります。こうした陸軍直営の軍用機生産とともに、民間企業による軍用機生産も始まっていきます。造船業を営んでいた三菱は、港区大江に進出し、軍用機部門を独立させて、三菱航空機名古屋製作所としました。1926年から10年間で、航空機1308機・発動機1804台を生産するまでになります。  その後の三菱の航空機生産(機体)を見ると、日中戦争の開始により1938年には一挙に3倍になり、太平洋戦争が始まると急上昇していきます。


年次 1937 1938 1939 1940 1941 1942 1943 1944
生産数 322 914 1194 1147 1697 2514 3864 563

(『新修名古屋市史』6巻9章より)

写真 作業風景

(三菱重工業名古屋発動機製作所作業風景
『愛知県史資料編30近代7工業2』 2008)

 三菱重工業名古屋発動機製作所(大幸)はこうした増産体制をつくるために1938年7月1日三菱名古屋航空機製作所(大江)からエンジン製造部門を分離独立させてできました。この大幸の工場完成以来、三菱が生産した発動機(エンジン)は、48,996台といわれ、ライバルの中島飛行機の生産した発動機の47,120台を抜き、文字どおり日本最大の発動機(エンジン)工場となっていきます。(松岡久光『三菱航空エンジン史』2005)。

 名古屋ドームのプレートには12月13日の1回の空襲で約300人の犠牲者が出たことしか、書かれていませんが、実際には空襲の被害ははるかに大きなものでした。米軍は航空機のエンジン工場を徹底して攻撃します。12月22日・1月23日・2月15日・3月24日・3月30日・4月7日にのべ600機以上のB-29が、250キロ爆弾や焼夷弾を1700トン以上投下し、三菱重工業名古屋発動機製作所は完全に破壊されました。これらの空襲で工場関係者や一般市民が2600人以上亡くなったといわれています。



地図

(米軍作成の12500分の1都市地図「名古屋北東部」 テキサス大学図書館ホームページより)

 戦後米軍が現地調査をして作成した地図には三菱重工業名古屋発動機工場や三菱電機は破壊しつくされていたことがはっきりと見ることができます。黄色い部分が建物の残存しているところです。(米軍作成の12500分の1都市地図「名古屋北東部」テキサス大学図書館ホームページより)