シリーズ 戦争を考えるための遺跡⑥
◆ 『
―東邦高校に建てられた戦争犠牲者の慰霊と平和への誓い
金子 力
東邦高校にある『平和の碑』 コンクリートのがれきは三菱重工業名古屋発動機製作所の工場の一部
1995年三菱重工業から譲り受けて校内に平和の碑として設置された。 2010年撮影
平和公園の東隣に東邦学園があります。学園は東邦高校と東邦大学からなっています。高校の正門をはいると、玄関横に大きなコンクリートのモニュメントがあります。碑(いしぶみ)には、1944年(昭和19年)12月13日の三菱重工業名古屋発動機製作所を目標とする空襲で300人以上が犠牲となったこと、その中に東邦高校の前身である東邦商業学校の動員学徒18人と教師2人が含まれていたことが記されています。戦後50周年に建立された『平和の碑』はまた、「そのような悲劇を再び繰り返すことのないように、その尊い犠牲のありさまを心に刻み、平和の貴重さを自らのものとして守り育て、さらに将来に伝えて行かなければならない」としています。
多くの学校で軍需工場への学徒動員が行われていましたが、校内に動員学徒の犠牲者を慰霊し、命や平和の尊さを伝えるための碑が建てられている学校は数えるほどしかありません。東邦高校の先生のお話では、毎年12月に学校行事として「慰霊の日」を設定して講話を聞くそうです。
ところで、1944年12月13日は名古屋への本格的な空襲が始まった日です。それまでに名古屋上空に出現し爆弾を投下したのは、空母発進のB-25爆撃機2機が1942年4月18日に来ただけでした。それは、日本本土まで自由に往復して爆撃できる基地が確保できていなかったからです。1944年6月から7月にかけて、アメリカはグアム・テニアン・サイパンに上陸し、長距離爆撃ができるB-29の出撃基地を作ります。
1944年11月1日サイパンから日本本土へ、爆撃に先立ってF-13とよばれるB-29を改造した偵察機が飛び立ちました。日本本土への空中写真撮影が目的でした。これ以降、ひんぱんに日本本土の都市や軍需工場の写真を撮り、どこに何があるのかを徹底的に分析していきます。名古屋は日本国内有数の航空機生産地でした。中でも三菱重工名古屋発動機製作所は、国内最大の航空機のエンジン工場でした。それはアメリカ軍にとって最重要目標の一つでもありました。アメリカは東京にある中島飛行機武蔵製作所(8回)と三菱重工名古屋発動機製作所(7回)をくり返し爆撃します。
さて、三菱重工業名古屋発動機製作所は現在どうなっているのでしょうか。大曽根駅の東には戦前から三菱電機の工場があります。そこから東のイオンの大型ショッピングセンターや名古屋ドームや名大医学部・矢田中学校・教育大付属小学校・同附属中学校・至学館高校・名古屋高校・砂田橋小学校・千代田橋小学校・東海病院・大幸東団地などはすべてが名古屋発動機製作所の工場用地だったのです。
アメリカ軍は三菱の航空機用エンジンが日本のどこで生産されているのか、調べて具体的な攻撃計画を立てました。下の図は、三菱重工業名古屋発動機製作所を攻撃する際の爆撃の照準点を示したものです。
アメリカ軍が三菱重工名古屋発動機製作所の爆撃を実行するために
爆撃部隊に進入方向(西から東へと爆撃照準点2ヶ所(赤い点)を示したリトモザイクとよばれる写真地図
上の白っぽいのが矢田川、右は茶屋ヶ坂、左は大曽根駅の交差点。 工藤洋三氏提供
今年の7月17日に千種区宮の腰町一帯に緊張が走りました。66年前にアメリカ軍が上空から投下した250キロ爆弾の不発弾が鍋屋上野浄水場の中に埋まっていたことが分かったからです。周辺の交通を遮断して、陸上自衛隊が撤去作業をしました。浄水場から爆弾が出てきたのは、三菱発動機へ投下された爆弾が目標をそれたためです。
鍋屋上野浄水場の不発弾処理作業を報じる中日新聞記事 2011年7月18日
アメリカ軍は工場に落とした爆弾がちゃんと目標に着弾したかどうかの追跡も上空から行っていました。こうして1944年12月13日から始まったB-29による名古屋空襲は、1945年7月26日八事日赤付近の模擬原爆まで62回の空襲がおこなわれました。
12月13日の三菱名古屋発動機製作所の爆撃で、投下した爆弾の着弾地を示した図
照準点から1000フィート(約305m)以上離れて着弾している爆弾の数が多いことが分かる。
上方には矢田川の中にも着弾している。下方では浄水場の中にも着弾していることが分かる。
『第20航空軍作戦任務報告書』より