シリーズ 戦争を考えるための遺跡④◆ 陸軍墓地ロシア人兵士の墓 金子 力
「平和公園陸軍墓地内にあるロシア人兵士の墓
右端が当時の墓石で、新しいものは1993年に復元された墓石
2010年撮影
名古屋市平和公園陸軍墓地の一角に、ロシア人兵士の墓が15基ならんでいます。「なぜ、ロシア人兵士の墓がここにあるのか?」1904年に始まった日露戦争で捕虜(正式には俘虜)となり日本に連れて来られた将兵のうち、名古屋で亡くなった兵士の墓です。
明治37(1904)年日露戦争が始まると、まもなく陸海軍は「俘虜取扱規則」を出します。一体何人くらいの捕虜が日本に連れて来られたのでしょうか。明治38(1905)年11月10日現在で、約7万2千人が全国の収容所にいたことが記録に残っています。
この数は政府の予想を大きく上回るものでした。当初設置された6か所の収容所では収容できなくなったために次々と収容所を増設して、最終的には29か所になりました。明治から昭和にかけて、日本に在住していた外国人が1万3千人から3万2千人といわれています。
突然、外国人が日本に送られてきて、青森県から熊本県までの全国29の収容所で明治39(1906)年2月17日まで生活することになります。
捕虜収容所のおかれた東別院
当時は収容能力があるのは寺院だった
『改正愛知県名古屋明細図』1877年 『新修名古屋市史』第五巻付図より
名古屋にはじめて捕虜が到着したのは、明治37(1904)年11月28日のことでした。約200人の捕虜は現在の東本願寺別院(東別院)に収容されることになります。3週間後にはさらに300人が追加されたため、西本願寺別院(西別院)、天寧寺、長栄寺が収容所に加えられました。
名古屋の収容所は将軍クラスの捕虜が8人、将校も100人いたといわれています。今では考えられないことですが、一般兵士とは待遇が違い、将校は外出も自由で中には遊郭通いをする者もいたという話が新聞に載っています。その後も名古屋に送られてくる捕虜の数が増えたため、徳源寺、万松寺、五百羅漢大竜寺が収容所にあてられます。最大時には3,792人の捕虜が名古屋の収容所にいたそうです。
そこで、明治38年千種に新築された「名古屋予備病院第五分院」の敷地にバラック15棟を設置してしのいだようです。「名古屋予備病院」とは、陸軍が設置した「衛戍(えいじゅ)病院」のことで、本院は名古屋城三ノ丸に置かれていました。その一部は今も「明治村」に移築保存されています。現在の名古屋国立病院は予備病院を引き継いだものといわれています。千種に設置されていたという「名古屋予備病院第五分院」の位置はまだ分かっていません。
ロシア人捕虜の葬儀 寺院の前で十字架が掲げられている
『愛知県史』資料編32巻より
捕虜収容所で亡くなったのは全国で349人、そのうち名古屋では15人が亡くなっています。こうしたことが分かったのは、つい最近のことです。1990年、平和公園陸軍墓地でロシア人兵士の墓石1基と慰霊碑が旧ソ連で抑留生活を送った日本人によって発見されました。そのロシア語の碑文から15人の捕虜が葬られていることが分かり、日本ユーラシア協会、名古屋ハリストス正教会、在大阪ロシア領事館の調査によって15人全員の階級と名前が判明しました。14基の墓石が新しいのはこの時に作られたからです。
現在の名古屋ハリストス正教会 昭和区山脇町
2011年撮影
毎年4月の第一日曜日に慰霊祭が行われています。日露戦争当時、名古屋ハリストス正教会は富士塚町(富士中学校のあたり)にあり、日本人司祭が収容所でロシア正教徒の宗教行事を執り行っていたそうで。収容所が置かれていた東西本願寺別院には祈祷室が設置されていたといいます。現在、ハリストス正教会は鶴舞公園の近くに移転しています。
陸軍省の資料や当時の新聞記事の分析による最近のロシア人捕虜についての研究では、この当時の捕虜は、15年戦争時とは比べものにならないほど人道的扱いを受けていたことなどが明らかになってきています。
詳しく知るために
・松山大学『マツヤマの記憶 日露戦争100年とロシア兵捕虜』2004.3の次の論文
平岩貴比古「第4章 名古屋と松山の収容所比較」
・堀田慎一郎「日露戦争のロシア人捕虜と愛知県」『愛知県史研究』第8号 2004.3
・大熊秀治『日露戦争の裏側“第二の開国”日本列島に上陸したロシア軍捕虜7万人』2011
・日本ユーラシア協会愛知県本部のホームページ
・名古屋ハリストス正教会ホームページなど