シリーズ 戦争を考えるための遺跡③◆ 名古屋市平和公園陸軍墓地      金子 力                             



 名古屋市平和公園の一角に「陸軍墓地」があります。明治9(1876)年、陸軍省は名古屋市東区出来町3丁目に陸軍将兵の埋葬と追悼のために、「陸軍埋葬地」を設置しました。
 その後「陸軍墓地」と名前を変え、昭和31(1956)年に戦災復興土地区画整理事業の一環として、現在の平和公園に移転されたものです。ここには、個人墓碑・合葬墓碑合わせて730余基があると言われています。


 明治6(1873)年、政府は名古屋など6カ所に鎮台(ちんだい)を置きました。鎮台は後に師団(しだん)と呼ばれるようになります。平時で4,260人、戦時で6,290人の将兵が名古屋城に配置されました。
 ところで、名古屋鎮台の兵士は誰と戦ったのでしょうか。戦った相手は、なんと西郷隆盛だったのです。明治10(1877)年2月に起きた「西南戦争」は最大の士族の反乱でした。名古屋鎮台兵にも動員命令が下り、2,034人が鹿児島まで出動、戦死者・戦病死者は286人に達したと言われています。こうした死者のうち、死亡日より2日以内に親族の引き取りのなかった場合に「陸軍墓地」に埋葬されました。今も「○○県士族」といった墓石を見ることができます。

 

「日清戦争の合葬墓碑のひとつ(明治29年建立)
2011年撮影

 明治27(1894)年に始まった日清戦争では、名古屋城に置かれた第三師団に動員命令が出され、名古屋市と愛知郡から1,033人の兵士が出征しています。出征した兵士のうち、犠牲となったのは、現在の名古屋市域で80人でした。ここ名古屋市平和公園の陸軍墓地には日清戦争の戦死・戦病死者の墓碑が一画に集められていて、士官・下士官・兵卒と階級による墓碑の規格の違いを見ることができます。
 近代日本が初めて外国と戦った日清戦争は犠牲者も多かったのですが、明治37(1904)年に始まる日露戦争は、けた違いの犠牲者を出しました。第三師団の戦死者4,055人、負傷者15,376人という大きなものでした。名古屋市域の戦病死者は日清戦争時の80人に対して、906人でした。日清戦争の墓碑は個人墓が多かったのですが、日露戦争以後は合葬墓が中心となり、昭和に入ると忠霊塔が公的参拝の対象となったため、個人墓碑は建立されなくなっていったといいます。


西南戦争から昭和にかけて503基の個人墓碑がならぶ
2011年撮影


 現在の「陸軍墓地」で最大のものは高さ6mを越える「万国英霊塔」(昭和25年)があります。合葬墓碑は14基あり、日清戦争以前のものが2基、日清戦争期のものが8基、日露戦争期のものが3基、シベリア出兵期のものが1基あるそうです。形の大きな個人墓碑はすべて将校(佐官・尉官)クラスのもので、その数は65基あるといいます。

 

 15年間続いたアジア太平洋戦争の墓碑はどうなっているのでしょう。「陸軍墓地」で見つけることはできませんでした。犠牲者がなかったのではありません。第三師団の犠牲者数を見ていくことにします。

 

 昭和6年(1931)に始まる「満州事変」の第三師団の戦死者は142人です。昭和12年(1937)に始まった「日中戦争」では第三師団の中核第六連隊の上海付近の戦闘だけで、戦死994人、負傷1931人を出しました。第三師団全体では死傷者12,160人、師団兵力の三分の一を失ったことになります。昭和15年(1940)から昭和20年(1945)までに名古屋市で区葬になった軍人・軍属は4,011人であったことが『広報』から判明しているといいます。『戦死者は増えているのに、墓碑は増えていないのはなぜ?』

 

 そんなことを思いながら、一角に目をやると西洋墓がありました。近づいてみると、どうやらロシア人とドイツ人のお墓のようです。(次回に続く)

 

明治37年3月発行『最新詳密名古屋市實測全図』に、地図左から徳川邸(現在の徳川園)、少し右へ行くと中央線が見える。中央線沿い右上に「陸軍墓地」(出来町3丁目)が見える。 その右の細長い「陸軍用地」は現在の県立旭丘高等学校になっている。


詳しく知るために
 愛知県『愛知県史別編 文化財1』2006年
 名古屋市『新修名古屋市史』5巻6巻 2000年 
 新修名古屋市史5巻付図『最新詳密 名古屋市實測全図』