シリーズ 戦争を考えるための遺跡②◆ 愛知時計電機 殉職者之墓      金子 力                             



   「名古屋市平和公園」は戦災復興によってつくられた墓地公園で、その広さは全国一とも言われています。尾張徳川家の菩提寺である「建中寺」墓域には、「愛知時計電機」の殉職者のお墓が一つあります。なぜ、時計製造会社で殉職者が出たのか、いつ殉職し、その人数は何人いたのか、昭和32(1957)年に建てられた墓石だけ見てもわかりません。そこで『愛知時計電機85年史』から、この会社の歴史を調べてみると、次のようなことがわかりました。

 明治26(1893)年に名古屋市東橘町で誕生した『愛知時計製造』は、掛時計・置時計の生産を順調に進めて、国内はもとより、海外にも輸出する時計製造会社でした。しかし、明治37(1904)年日露戦争が始まると、精密機械製造の実績を買われて、陸軍や海軍か爆弾の信管など精密兵器の注文が入るようになります。そして、会社はこれまでどおり時計を作る「時計部」と精密兵器や電機機械を中心とする「電機部」の二部制となり、兵器製造部門が確立されていきます。
 明治45(1912)年、社名は「愛知時計電機」となり、本社工場を中区東川端町に移転しました。大正3(1914)年から7(1918)年の第一次世界大戦では、多量の軍需注文を引き受けて売上げを伸ばし、兵器生産を重点に据える企業になっていきました。

 

 さらに、大正9(1920)年には国内で始まったばかりの航空機の生産に加わり、11月7日には1号機を完成させます。こうして「愛知時計電機」は「三菱重工業」・「中島飛行機」とともに、日本を代表する航空機製造企業への第一歩を歩み始めます。
 航空機工場は広大な面積を必要とするため、現在の熱田区「千年船方」に新工場が建設されます。大正11(1922)年に飛行機組立工場、機械工場が完成し、格納庫は築地4号地につくられました。また、瑞穂工場で製造していた時計部を、分離独立させて「愛知時計株式会社」として、「愛知時計電機」は軍需製品専門の企業へと様変わりしていきました。

 ところで、三菱の製造した「零戦」は有名ですが、「愛知時計電機」はどんな航空機をつくっていたのでしょうか。車輪を持たず水面に離着水する飛行艇や水上機、空母に離着艦する艦載機など、海軍に納品する航空機が中心でした。真珠湾攻撃に参加した「九九式艦上爆撃機」、戦艦などに搭載して偵察時に発進する「零式水上偵察機」や航空母艦に搭載する「彗星」(すいせい)などを生産しました。
 昭和16(1941)年には航空機増産のため港区稲永に永徳工場を開設して事業を拡げます。昭和18(1943)年には他の兵器生産と切り離した航空機専門の会社「愛知航空機株式会社」を設立してさらなる増産をめざしますが、昭和19(1944)年12月7日の東南海地震で工場は大きな被害を受けます。

 

 そして、昭和20(1945)年6月9日、アメリカのB-29は航空機生産工場「愛知時計電機」「愛知航空機」を第一目標とする爆撃を実行します。一度出されていた空襲警報が解除となり、退避していた人たちが職場に戻ってきたところへ爆弾が投下されたため、名古屋市空襲の中でも最大の犠牲者が出てしまいました。
 「愛知時計電機」で1,176人~1,314人、「愛知航空機」で567人~663人、同じ熱田区の「住友金属」で162人~191人、さらに一般市民の犠牲者348人を加えると、2,253人~2,516人にも上る犠牲者が出たと言われています。
 名古屋市平和公園に建てられた『愛知時計電機殉職者之墓』から、名古屋の軍用機生産の歴史と、すさまじい空襲被害の様子が浮かんできます。

 

 ところで、ここ平和公園に「陸軍墓地」があることを知っていますか。(次回に続く)

○詳しく知りたい人のために  愛知時計電機株式会社『愛知時計電機85年史』昭和59年発行   あいち・平和のための戦争展実行委員会『戦時下・愛知の諸記録 不完全データー2000』  松岡明文堂『名古屋市全図』昭和8年6月15日発行  愛知県『愛知県史 資料編30 工業2』 平成20年3月発行


愛知時計電機が千年船方に本社工場を建設した事を示す『名古屋市全図』昭和8年発行より


名古屋市平和公園に建てられた「愛知時計電機殉職者之墓」2011年撮影


愛知時計電機の航空機製造の様子 『愛知県史』資料編第30巻より