ピースあいち・メールマガジン
シリーズ「戦争中の新聞等からみえる戦争と暮らし」バックナンバー
ピースあいちメルマガに連載されている記事をこちらから見ることができます。
 
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  @ 2011年3月26日 16号
◆ なんとも不思議な広告
戦争中の『東京朝日新聞』を見ていたら、なんとも不思議な広告を見つけたので紹介する。
・・・(↓全文はこちら)
  http://www.peace-aichi.com/piace_aichi/201103/vol_16-5.html
画像(PDF)はこちら。
  http://peace-aichi.com/objects/pdf/
20100315asahipapilio.pdf
 
     
  A 2011年5月26日 18号
◆ 作文・小池キヨヱ「モルヒネとり」
戦前、日本内地でも、ケシ畑があり、大規模に阿片を生産していた。阿片の生産地は和歌山県と大阪府に集中していた。和歌山県の生産額が第一位であった。
・・・(↓全文はこちら)
  http://www.peace-aichi.com/piace_aichi/201105/vol_18-5.html
 
     
  B 2011年7月25日 20号
◆ 観音寺の興亜観音
私は『朝日新聞外地版』復刻版(ゆまに書房)を見ていた。偶然、「興亜観音竣工す」という記事を見つけた。はじめに、その記事を紹介する。・・・ (↓全文はこちら)
  http://www.peace-aichi.com/piace_aichi/201107/vol_20-7.html
 
     
  C 2011年9月27日 22号
◆ 「張作霖氏坐乗列車爆破現状絵葉書」
―関東軍が作成・販売させた絵はがきセット

岩田錠一軍医が残した絵はがきの束の中に、おもしろい史料があった。関東軍は、1928年6月、張作霖を爆殺する。その現場を写した写真を絵はがきセットにしたものである。9枚の白黒の絵はがきが、封筒に入っていた・・・・
・・・・(↓全文はこちら)
  http://www.peace-aichi.com/piace_aichi/201109/vol_22-9.html
 
     
  D 2011年10月26日 23号
◆ 日中戦争とタタミ 「榻榻米」(tatami)
─在留日本人はなぜ、日本式の生活にこだわったのか

日中戦争の時、中国戦線に多くの在留日本人がやってきた。彼らは軍人・軍属ではなく、民間人であった。日本人は中国に移住してきても、自国の生活習慣を容易に変えようとせず、衣食住すべての面で日本式の生活をそのまま続けようとした。在留日本人はなぜ、日本式の生活にこだわったのであろうか。日本人町の住まいの方面では、畳の導入・使用が最も重要な位置を占めていた。
・・・・(↓全文はこちら)
  http://www.peace-aichi.com/piace_aichi/201110/vol_23-6.html
 
     
  E 2011年11月25日 24号
◆ 「戦争の横顔」・従軍記者が杭州市・西湖畔で、高級ホテル暮らし
従軍記者が送ってきた記事の多くは、凄惨な戦場の報告である。その中で、今回、紹介する記事は、おもむきが違っている。日中戦争時、軍事占領したばかりの杭州市で、従軍記者はいわば「早い者勝ちで」、ホテルを接収して、新聞社支局とする。残留していたホテルの従業員13人もそのまま使用する。いわば「切り取り勝手」の世界が実現したという話である。
・・・・(↓全文はこちら)
  http://www.peace-aichi.com/piace_aichi/201111/vol_24-5.html
画像(PDF)はこちら。
  http://peace-aichi.com/pdf/24-5kurahashi11.pdf
 
     
  F 2011年12月25日号 25号
◆ 兵隊は運動会が大好き─ 日中戦争期、日本人町における軍民合同の運動会
日中戦争で、日本軍は中国の領土を広範囲に占領する。およそ100万の日本軍がずっと戦地に駐屯して、占領支配に当った。これと同時に、多くの日本人民間人も占領地にやってきた。
・・・日本人町で、兵隊が民間人と一緒になって運動会を催している。
・・・運動会は、兵隊だけでなく、日本人町の住民にとっても心が浮き立つ最大規模のイベントであり、かつ娯楽の場でもあった。
(↓全文はこちら)
  http://www.peace-aichi.com/piace_aichi/201112/vol_25-13.html
 
     
  G 2012年1月25日号 26号  
◆ 大陸へ大阪の進軍・日中戦争期の大阪賛歌
『大阪朝日新聞』に、1940年(昭和15年)1月17日から21日にかけて、「大陸 へ大阪の進軍」という合計5回の連載記事が掲載される。中国戦線に形成され た日本人町の中から、広東、上海、九江、漢口、南昌の5つの都市を選び、各 都市に派遣されている特派員がそれぞれ報告するという形式である・・・
(↓全文はこちら)
http://www.peace-aichi.com/piace_aichi/201201/vol_26-9.html
↓紹介されている新聞記事をPDFで見られます。 http://www.peace-aichi.com/pdf/26-9shinbun2.pdf
 
     
  H 2012年2月25日号 27号  
◆ 救世軍の報国茶屋―日中戦争期の軍隊慰問事業
軍隊慰問事業とは、民間人の団体が戦地に出かけ、兵隊の世話をすることであ る。日露戦争の時、YMCAの青年たちは戦場となった中国東北地方に出かけ て軍隊慰問事業を行った。これが日本のプロテスタントによる軍隊慰問事業の 初めである・・・
(↓全文はこちら)
http://www.peace-aichi.com/piace_aichi/201202/vol_27-11.html
↓関連の新聞記事画像(PDF)はこちら。 http://www.peace-aichi.com/pdf/20120221_tokinokoe.pdf
 
     
  I2012年3月25日号 28号
◆ 救世軍の済南診療所――日中戦争期の医療事業
救世軍は1937年11月から、報国茶屋という軍隊慰問事業を行う。戦争の長期化 に対応して、軍から救世軍に新たな事業が要請される。それが診察所と日本語 講習所の設置であった・・・。 (↓全文はこちら)
http://www.peace-aichi.com/piace_aichi/201203/vol_28-10.html

↓関連の新聞記事画像(PDF)はこちら。
http://www.peace-aichi.com/pdf/28-10_kurahashi.pdf
 
     
  (11)2012年4月25日号 29号
◆ 開封の日本人町――『開封商工案内』の紹介
『商工案内』(業種ごとに分類された会社・商店のリスト)は、宣伝および住所録をかねて、市や町ごとに盛んに刊行された。驚くべきことに、戦争が続いている最中の中国戦線に形成された約200の大小さまざまな日本人町でも刊行された。その中でも、もっとも詳しい『開封商工案内』の分析を通じて、開封日本人町の状況を明らかにしたい・・・。
(↓全文はこちら)
http://www.peace-aichi.com/piace_aichi/201204/vol_29-8.html
↓関連の新聞記事画像(PDF)はこちら。
http://www.peace-aichi.com/pdf/29-8_shinbunkurashi.pdf
 
     
  (12)2012年5月25日号 30号
◆中国戦線における国防婦人会――女性の戦争協力
国防婦人会は、満州事変のころ、陸軍の肝いりによって、女性を戦争に動員す るために作られた組織である。中国戦線に移住してきた日本人のうち、女性は 4割程度を占めていた。日本人町に暮らす女性を会員にして国防婦人会が組織 された。この国防婦人会が、在留日本人の前述の思いを最も率直に体現して、 行動する。同じ国防婦人会といっても、きわだつ好戦性という点で、日本内地 のそれとは、明らかに違っていた…。
(↓全文はこちら)
http://www.peace-aichi.com/piace_aichi/201205/vol_30-9.html
↓関連の新聞記事と写真をPDFで見られます。
http://www.peace-aichi.com/pdf/20120521_kokuboufujin.pdf  
 
     
  (13)2012年6月25日号 31号
◆ 国防婦人会に加入した売春婦たち
日中戦争期、女性を戦争に協力させるために、国防婦人会が軍部のあと押しで 作られていた。中国戦線の日本人町でも、国防婦人会は作られた。前号(30号  中国戦線における国防婦人会―女性の戦争協力)で、中国戦線に作られた国 防婦人会のことを紹介した。本稿では、国防婦人会に加入した売春婦のことを 取り上げる。
(↓全文はこちら)
http://www.peace-aichi.com/piace_aichi/201206/vol_31-9.html
(↓詳しい画像はこちら)
http://www.peace-aichi.com/pdf/31_9_shinbunk.pdf
 
     
  (14)2012年7月25日号 32号
◆ 女性の服装・着物の氾濫
キモノは日本人の民族衣装なので、中国では目立った。キモノ姿の女性は、い わば日本軍の軍事支配の象徴であった。キモノ姿の女性が多くいれば、そこが 日本人町であった。当時、日本内地でも女性の普段着はキモノであったから、 内地の服装がそのまま軍事占領地にも持ち込まれたのである。最も多い時で20 万人もの日本人女性が、キモノを着て中国の軍事占領地に居住したことになる。 日本の新聞はそれを「着物の氾濫」と呼んでいる・・・
(↓全文はこちら)
http://www.peace-aichi.com/piace_aichi/201207/vol_32-8.html
(↓詳しい画像はこちら)
http://www.peace-aichi.com/pdf/20120723_kurahashi.pdf
 
     
  (15)2012年8月25日号 33号
◆ 在留日本人のゾンザイな振る舞い
中国戦線にやってきた日本人は、以前、内地で従事していた仕事・職業を、中 国でもそのまま続けた。この結果、日本人町の状況は内地の町によく似たもの になり、日本人は、あたかも内地に住んでいるかのような気持ちになった。中 国という「外国」で暮らしているという現実を忘れがちであった。その上、 「戦勝国」の国民であるという「おごり」の意識が加わり、往々にして周囲の 中国人を見くだした振る舞いをした。本稿では日本人町に暮らす在留日本人が、 戦争中どのように振る舞ったのかを見てゆく。
(↓全文はこちら)
http://www.peace-aichi.com/piace_aichi/201208/vol_33-8.html

(↓詳しい画像はこちら)
http://www.peace-aichi.com/pdf/33-8_shinbun.pdf
 
     
  (16)2012年9月25日号 34号
◆ 釜山北京直通列車による鮮魚の輸送
前線から休日に日本人町にやってくる兵隊たちが求めたごちそうは、中国料理 ではなく、日本料理であった。日本料理の中でも肉料理はあまり人気がなかっ た。というのは、当時、日本人には肉を食べる習慣があまりなかったからであ る。兵隊たちの求めたごちそうもさかな料理であった。中国戦線の日本人町で は、生きのよい鮮魚が求められた。塩蔵したり、干物にした魚は歓迎されなか った・・・。
(↓全文はこちら)
http://www.peace-aichi.com/piace_aichi/201209/vol_34-4.html
(↓詳しい画像はこちら)
http://www.peace-aichi.com/pdf/33-4-4_shinbun.pdf
 
     
  (17)2012年10月25日号 35号
◆ 淡水魚をナマで食べる
中国戦線にいる日本人に、なるべく多くの海産の鮮魚を供給したい。そのため の手段の一つが、中国近海に日本の漁船にきてもらい、操業させることであっ た。しかし、海産の鮮魚にこだわっても、実際のところ、内陸の都市では海産 の鮮魚は入手できない。残されたのは淡水魚ということになる。中国の河川・ 湖沼には、日本内地では見られないような大きな魚がいた・・・。
(↓全文はこちら)
http://www.peace-aichi.com/piace_aichi/201210/vol_35-4.html
(↓詳しい画像はこちら)
http://www.peace-aichi.com/pdf/35-4_tansuigyo.pdf
 
     
  (18)2012年11月25日号 36号
◆ 朝鮮米
中国戦線(満州国、関東州、台湾および香港を除く)にやってきた日本人は、 軍人、民間人を問わず、これまで口になじんでいる日本米にこだわった。日本 人は「食」に対して保守的であって、軍事占領地域で生産される農作物(小麦 など)を主食として食べなかった。彼らは占領地域においても、日本米を食べ 続けようとした・・・
(↓全文はこちら)
http://www.peace-aichi.com/piace_aichi/201211/vol_36-4.html
(↓詳しい画像はこちら)
http://peace-aichi.com/pdf/36-4_shinbun.pdf
 
     
  (19)2012年12月25日号 37号
◆ 九江の日本人小学校
軍と領事館は、日本人民間人の子どもの教育を保障するように努めた。子ども の教育がきちんと保障されないと、民間人は定住しにくかったからである。民 間人が占領地の都市に安心してやってきてくれることを、軍も望んでいた。軍 は時に現役の兵隊を臨時に小学校に派遣して教員にさせたが、これも、占領に やってきてくれる民間人を、軍が重視していることの現れであった・・・
(↓全文はこちら)
http://www.peace-aichi.com/piace_aichi/201212/vol_37-4.html
(↓詳しい画像はこちら)
http://www.peace-aichi.com/pdf/37-4_shinbun.pdf
 
     
  (20)2013年1月25日号 38号
◆ 九江の町は空き家ばかり 
九江は揚子江(長江)水運の重要な港町で、南京と漢口のほぼ中間に位置してい た。1938年7月26日に陥落する。南昌作戦および漢口作戦を順調に行うために、 日本軍は九江の町を作戦基地として利用する。日本軍は彼らを町から追い出し、 長江のほとりに難民区を作り収容した…
(↓全文はこちら)
http://www.peace-aichi.com/piace_aichi/201301/vol_38-4.html
(↓詳しい画像はこちら)(PDF、B4、3P、約1.0MB)
http://www.peace-aichi.com/pdf/20130122_38-4_shinbun.pdf
 
     
2月25日号「九江の慰安所の写真」参考画像(PDF、B4、2P、約0.6MB)
(写真・絵)
3月25日号「【史料紹介】日本軍が中国でまいた伝単
―「戦争に関する資料館調査会」史料より」
参考画像

(PDF、41P、約4.1MB)
(伝単)
4月25日号「【史料紹介】日本軍が中国でまいた伝単(その2)
―「戦争に関する資料館調査会」史料より」
参考画像

(PDF、34P、約3.0MB)
(伝単)
5月25日号「【史料紹介】日本軍が中国でまいた伝単(その3)
―「戦争に関する資料館調査会」史料より」
参考画像

(PDF、8P、約0.9MB)
(伝単)