消しゴムでは消せない街◆映画「しがみつき、燃え続ける(名古屋を消す)」
当NPO理事 西形久司
弁護士であり、ビジュアル・アーティストであるボブ・フレミング氏が、いまは亡き父・ロバート・フレミング(1999年没)の、爆撃機の搭乗員として従軍していたときの体験を審問する――「しがみつき、燃え続ける~名古屋を消す~」という53分間の映像作品は、この根幹としてのストーリーにさまざまな要素を絡めています。

ボブ・フレミング氏
サイパン島に本拠をもつ米軍B29部隊のひとつ第73航空団に所属していた父・ロバートは32回の日本本土爆撃の作戦任務に従事しましたが、生前はなにひとつわが子・ボブに語ることはしませんでした。あるときボブは、残された父の遺品のなかから、1945年3月12日の名古屋市街地爆撃の際のレーダー映像の写真を見つけました。なぜ父はこのような写真を大切に保管していたのか。一緒に保管されていた、タイプ打ちされた戦闘証明書によると、32回の出撃のうち6回は名古屋に対する爆撃でした(ほかに気象観測2回)。
映像作品のなかで、父の役も演じるボブは、武装していない民間人を殺害したことを問い詰めますが、父は「日本人の倫理感覚は測り知れない」「先に手を出したのは日本人の方だ」「良いジャップは存在しない」「自分は使命に従っただけだ」として、答えをはぐらかそうとします。一般的にこれらの答えは、ベテランズ(退役軍人)によくみられるものです。それでも父・ロバートは、ベトナム戦争のとき、公然と反戦運動に参加していました。ベトナムに落とされたナパーム弾は、日本に落とした焼夷弾と同じではないかと問うボブに対し、ロバートは「戦争は純粋なホラー・ショーだ」と、やはり答えをはぐらかしてしまいます。ボブは、父の答えは自分を防御するための「仮面」にすぎないのではないかと指摘します。そうして最後にOnly the beginning(始まりに過ぎない)――爆弾のボディにもペイントされたこの言葉で、作品は結ばれます。
さきほど私は「さまざまな要素」が絡まっていると書きました。1枚のスクリーン上に2つの画面が同時進行していきます。2つの画面は本文と註釈の関係ではなく、それぞれが補完し合いながら展開していくため、見ている側はかなり忙しい作業を強いられます。1回見ただけではなかなか全体像がつかめないという、巧みな仕掛けになっているのかもしれません。あるいは同じ画面を見ていても、人によって違うものが見えてくるという不思議なアートなのかも。
私の頭のなかでも、さまざまな思考がせわしなく駆けめぐっていました。そのなかから一つだけ取り出してみます。例えば匂いについて――ボブは父・ロバートに、B29搭乗中に焼けた人間の匂いがしたかと問い詰めます。父は、その問いかけは失礼だと拒みます。焼けた人間の匂いだなんて……。そう、大火災に呑みこまれた都市の上空では猛烈な上昇気流が発生します。投弾を終えて爆弾倉を閉じるということは、上昇気流で吹き上げられた地上の臭気をそのままパッケージして基地に持ち帰ることを意味します。米陸軍士官学校で教鞭をとったことのあるコンラッド・クレインは、その著書で次のように述べています――
作戦任務報告書は、都市爆撃の目的が市民への無差別爆撃ではなく、市街地に集中する工場や戦略上の目標の破壊にあることを強調している。このようにして、爆撃に対するいかなる批判にも反論するとともに、爆弾倉にこびりついた焦げた肉の匂いから自分の任務に疑問を持ち罪悪感にさいなまれる搭乗員の混乱した良心を解きほぐそうというのである。Crane, Conrad C., ”Bombs, Cities, and Civilians”. University Press of Kansas, 1993(邦訳未刊)
爆撃機に乗り組んだ兵士たちは、基地に帰って爆弾倉を開けることにより初めて、自分たちの行為の意味を知り、良心の呵責を覚えるのです。B29の搭乗員のなかには著名な詩人もいました。ジャーナリストのスタッズ・ターケルのインタビューに答えたジョン・チアルディは次のような印象的な言葉を残しています――「私は、自分が殺した相手はだれひとりみていない」(スタッズ・ターケル『良い戦争』晶文社、1985年刊)。何千メートルもの上空からでは、地上で繰り広げられている惨劇を見ることはできません。少なくとも基地に帰って爆弾倉を開けるまでは。ボブの父の「自分は使命に従っただけだ」という釈明も、このようにして成立してしまうのです。同じ焼夷弾を降らせたベトナム戦争に立ち向かった父の「仮面」の存在を衝いたボブの感覚は、さすがに鋭敏でした。
映像作品のサブタイトルはErasing Nagoyaでした。eraseには「消す」という意味(eraserは消しゴム)のほかに、「なかったことにする」という意味があります。都市も、市民も、そして戦争の記憶そのものも、「なかったこと」にはできないのです。
