「沖縄から平和を考える」 ~ 沖縄訪問記(その2)

ボランティア  牧野 修三





 昨年末に沖縄を訪問した際に掲げた三つのテーマの中から、「1.沖縄戦の経緯をたどる」についてご紹介した先月に続き、今月は「2.沖縄戦終結から近年に至る沖縄の苦悩を知る」のご紹介です。
 * 1.沖縄戦の経緯をたどる 2.沖縄戦終結から近年に至る沖縄の苦悩を知る 3.沖縄の今を知る

 昨年秋、ピースあいちに置かれていた写真展のチラシ「阿波根昌鴻(あはごん しょうこう) 写真と抵抗、そして島の人々」(立命館大学国際平和ミュージアム)に目が吸い寄せられました。素朴な民家の庭に転がっている巨大な爆弾の残骸、それらを前に座り込んでいる子供たちと家族らしき人たち。チラシの解説文には、
 「朝鮮戦争後の1955年に『銃剣とブルドーザー』と呼ばれる米軍による強制土地接収が伊江島で始まった際、非暴力の土地闘争をリードして、その後に沖縄で展開される『島ぐるみ闘争』への端緒を開いたのが阿波根昌鴻でした。」
とありました。
 15年戦争の概要とともに、国内唯一の地上戦が行われた沖縄戦についても、ある程度は理解していたつもりでした。しかしながら、沖縄戦終結から本土復帰までに沖縄で起きていた出来事、伊江島の歴史や阿波根昌鴻という人物については無知と言っても良い状態でした。ということで、初めて伊江島を訪れました。

沖縄戦跡
 平坦な土地にそびえる城山(グスクやま)が印象的な伊江島ですが、それを更に強く印象付けているのは「立派な樹木・森がない」ことではと感じました。城山頂上から一望する島の全景、島のあちこちで目に入る景色、どこも見通しが良いのです。島に隣接する沖縄本島・本部半島(もとぶはんとう)の木々に覆われた景色とは対照的です。住民の半数が犠牲になった「沖縄戦の縮図」と言われる伊江島。米軍の激しい爆撃によって島中の木々は焼き尽くされたといいます。

本部半島八重岳より伊江島遠望
島の中央東寄りにそびえたつ城山
城山頂上より伊江島北西方向を望む
左奥は島の35%を占める米軍基地

 戦前から残る建物は、かろうじて原形をとどめる「公益質屋跡」のみ。避難した住民150人が自決などで犠牲となったアハシャガマ、一方では住民の多くの命を守ったというニャティアガマ(千人ガマ)など、島全体が正に「沖縄戦跡」なのでした。

公益質屋跡
アハシャガマ
ニャティアガマ

戦後の土地闘争を伝える「ヌチドゥタカラの家」
 阿波根昌鴻さんが集めた「がらくたの山」(ヌチドゥタカラの家HP記述)に圧倒されました。1955年からの土地闘争以降に収集した米軍の爆弾、模擬核爆弾、鉄線、標識や戦争直後の生活用品や闘争を記録した写真や土地を守る会の旗などで、小さな資料館が埋め尽くされています。冷戦時に行われていた原爆投下訓練で島に落とされた模擬核爆弾には背筋が寒くなりました。また、こうした投下訓練などで米軍が多量に落とした爆弾を土地を奪われ生活手段を失った住民がスクラップとして売って生計をつないでいたことや、スクラップとして売るために不発弾を解体している時に爆発事故で亡くなった住民がいたという話など、高度成長期を迎えつつあった本土とは全く異なる境遇に置かれていた当時の伊江島の状況に今更ながら愕然とさせられました。
 この様な状況を受けて非暴力で米軍に抵抗した「沖縄のガンジー」と呼ばれる阿波根昌鴻さんの活動を伝える資料や数々の言葉に感銘を受けましたが、一方では、愛知県在住の伊江島出身の知人から「当時の島民は、土地収用の賛成派と反対派に分断されていた。賛成派の我が家では阿波根さんの話には触れてはいけない雰囲気だった。」という話を伊江島訪問後に聞き、日本各地で現在も続く「理想(平和主義)と現実(生計維持)との分断」について改めて考えさせられることになりました。

ヌチドゥタカラの家
ヌチドゥタカラの家 展示品

 「新しい戦前」の時期を通り過ぎ、「戦時体制」の時期に入りつつあると感じられる昨今、阿波根昌鴻さんが残した言葉 「平和の最大の敵は無関心」 「戦争の最大の友も無関心」 を胸に、自分に何ができるか?何をすべきか?再び悩める日々が始まりました。