一色学びの館企画展「三河地震から80年 地震と戦争」にてピースあいちご所蔵資料をお借りしました。
西尾市立一色学びの館 学芸員 利光 正恵
西尾市立一色学びの館では、2024年11月から2025年2月にピースあいちの資料もお借りして、企画展「三河地震から80年 地震と戦争」を開催いたしました。


内陸直下型地震であったこの地震は、三河地方に局地的な大被害をもたらし、当館のある西尾市域でも死者1,200人以上の甚大な被害を受けました。
被害が大きくなった要因として、約1ヵ月前の昭和19年(1944)12月7月に発生した東南海地震が挙げられます。この地震で歪んだり傾いたりした家屋が三河地震の揺れで完全に倒れてしまい、就寝中の人々が家屋の下敷きになってしまったのです。
一方で当時は戦時下であり、三河地震は自然の要因だけでなく、戦争の影響を大きく受けた地震でもありました。企画展では報道管制・学童疎開・物資不足の3つの点から、三河地震と戦争の関係を紹介しました。
報道管制
大きな被害があったにもかかわらず、東南海地震や三河地震はほとんど報道されませんでした。そのため、被害の実態が近年まであまり知られておらず、東南海地震や三河地震は「隠された地震」と呼ばれることもあります。
ピースあいちからお借りした「中部日本新聞 昭和20年1月14日」は三河地震の翌日に発刊された新聞です。先月の東南海地震に比べると震度ははるかに小さく、三河地方で若干家屋の全半壊や死傷者を出したという、事実とは異なる記事が新聞の裏面に掲載されています。
写真もない小さな記事ですが、地元紙である中部日本新聞は他の全国紙に比べ、三河地震を大きく取り上げました。報道管制下で被害の詳細について報道できない代わりに、震災に立ち向かう人々の美談や、余震についての情報、支援情報や地震についての調査結果など、人々の心の安定に焦点を当てた報道を行ったのです。
学童疎開
第二次世界大戦末期になり空襲が激化すると、名古屋市の子どもたちを他の場所へ避難させる「学童疎開」が行われました。
西尾市域でも6つの国民学校の疎開を受け入れ、市内の寺が宿舎になりました。しかし、三河地震により安樂寺、妙喜寺、福浄寺の3ヶ寺の本堂が倒壊してしまい、そこで寝泊まりしていた大井国民学校31名の児童と1名の付添い教師が亡くなってしまいます。本堂は屋根が重くて壁が少なく、地震にあまり強くない建物です。戦争中でもなければ本堂で寝泊まりする人は少なく、戦争中だからこそ起こってしまった悲劇でした。
ピースあいちからは防火用品である砂弾と、碧海郡六ツ美村(現岡崎市)の崇福寺に疎開した児童の日記をお借りしました。西尾市内に砂弾は残っておらず、来館された方は興味深げに見られていました。
物資不足
県や町村は被災者に対して米や酒、魚などの特別配給を行いましたが、戦争による物不足のため、被災者の生活を支えるには不十分な量の支援しか行われませんでした。
住家に対しても同様で、仮設住宅を建てるための釘や木材が足りず、倒壊した家屋のものも再利用しました。
当企画展は約2ヶ月という短い期間の開催でしたが、1,723人の方が来場され、戦時下の震災の悲惨さがよく分かる展示だったとの声もいただきました。
企画展の準備のため調査を進める中で、自然災害を防ぐことはできないが、戦争は防ぐことができる。防災にだけでなく、、平和についても改めて考えさせられるテーマでした。