第12回寄贈品展「知ってほしい戦争の時代◆インパール作戦の証言
ボランティア(資料班) 土井 亜由美

                                           




 第12回寄贈品展が昨年12月3日から開催されています。サブタイトルは「知ってほしい戦争の時代」です。寄贈品展を担当する資料班のメンバーが話し合い、思いを込めて決めたタイトルです。
 私は今回、川口久子さんの寄贈品「終戦50周年の証言」から、インパール作戦の最前線で戦った兵士たちの過酷な現実を知り、大きな衝撃を受けました。
1944(昭和19)年3月、日本軍はビルマの国境を越え、連合軍の拠点であるインド北東部のインパール攻略を目指しました。食料や弾薬の補給が極めて困難な山岳地帯やジャングルを越えて進軍したこのインパール作戦は、アジア・太平洋戦争の中で最も無謀な作戦だったと言われています。

 川口さんのお父様が所属した第31師団はインパールの北に位置するコヒマを目指しました。現地の農民から調達した牛を引き、橋のない川幅約600メートルのチンドイン河を渡ると、標高2000メートルを超えるアラカン山脈が現れます。「先人未踏の急峻を攀じ登るのが日課」であり、「一山登りつめれば今度は下り坂に直立に近い崖」を降りなければなりません。牛たちは急斜面から墜落し、次々に死んでいきました。
 食料や弾薬の補給もないまま雨季が到来すると、兵士たちはマラリアや赤痢に侵され、飢えの極限に達しました。「やっとたどり着いた病院」もジャングルの中で建物など一つもなく、「一滴一錠の薬」もありません。「名ばかりの野戦病院」に希望を失い、兵士たちは次々に倒れていきました。


 飢えと病気で動けず道端に倒れていく兵士たちに衛生兵が注射をすると、「わずか5、6分で絶命」していきました。ジャングルの闇に響く手榴弾の音、自爆を図る兵士も後を絶ちません。街道にはおびただしい兵士の死体が続き、この道は「白骨街道」と呼ばれました。


 インパール作戦は失敗に終わり、3万人を超える日本兵が命を落としました。「あのころは若かったし涙も出なかったが…今、死んだ戦友のために大いに泣いてやりたい。」証言の中のこの言葉が、私の心に深く響きました。
 ぜひ多くの方がこの寄贈品展を訪れ、戦争の時代を知り、平和の重要性を考えるきっかけとしてほしいと思います。