戦後80年を迎えて
戦争と平和の資料館ピースあいち 館長  宮原 大輔

                                           
 

 明けましておめでとうございます。
 戦後80年の年を迎えました。ピースあいちにとって、戦後80年はどんな節目になるのかを考えてみました。

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戦後50年
 ピースあいちができるまでを振り返ってみます。
・1993年 戦争メモリアルセンターの建設を呼びかける会が約100人の呼びかけ人で発足
・1994年 愛知県知事と名古屋市長に「戦争メモリアルセンター建設の要望書」を提出。愛知県議会に請願書を提出し、3月にこの請願が満場一致で採択された。
・1995年 3月に名古屋市議会でも請願が採択された。
・同年、愛知県と名古屋市で終戦50周年事業調査検討会議で戦争資料館の建設が提言された。
・1996年12月 調査検討委員会は基本理念と方向性等を明らかにする報告書を発表
・1997年8月 県・市は「戦争に関する資料館検討委員会」を設置して、翌年から戦争資料の収集を開始

 このころ、世の中でも「戦後50年」という言葉がしばしば使われていました。「戦後50年、半世紀を経て、戦争を知る人が少なくなり、戦時下の資料が散逸しようとしている」というように。
 戦争資料館を建設しようという呼びかけは多くの人々に受け入れられて行きました。
 それは50年もの間、平和の中で経済が発展して、人々が豊かになっていき、「戦争」のことを忘れてしまうことへの、戦争体験世代からの警鐘だったのかもしれません。
 1999年3月には「戦争に関する資料館検討委員会」は戦争資料の収集、保存、展示、管理運営に至る資料館構想の報告書を発表しました。
 このころにはすぐにでも戦争資料館ができるのではないかと思いましたが、知事交代により、県が「箱もの建設の凍結」を打ち出して、建設の道筋が見えなくなりました。
 それから新展開を見るまでには長い年月が必要でしたが、名古屋での戦争資料館建設の歴史の始まりは1995年、戦後50年前後にあったと言うことができます。

 

それから30年
 行政の動きが鈍くなり、私たちにとっては我慢の時期が続きましたが、季刊誌『承継』の発行は続けられていました。「考えられる活動を大方やった後に、なお出来ることは何なのか」、「建設の歩みを一歩でも前に推し進めるため」でした(創刊号より)。
 それまで一市民グループとして活動してきた会からNPO組織にしたのは2003年でした。
 2005年4~5月に東区の名古屋市民ギャラリー矢田で開催した「平和のための戦争資料館展」(モデル展)は、市民のみなさんに資料館建設の必要性をもう一度世論に訴えようとするものでした。「こういう資料館が必要なのです」と。

 モデル展には多くのみなさんが来てくれました。期間中にモデル展の新聞記事を見た加藤たづさんから建設用の土地と建設資金を提供する申し出がありました。元々は県や市が公共的な資料館を作って欲しいという活動でしたので、県市との話し合いなどの紆余曲折がありましたが、NPOはこの年の10月に県市の資料館建設の見通しがない中で、NPOがこの寄付を受け入れて先行的に資料館を作ることを決めました。
 ピースあいちが出来たのは2年後の2007年5月でした。それまでの2年間は、建物の設計や展示の検討などたくさんの仕事に忙殺されましたが、資料館建設のことを知って多くの人々が協力してくれました。

 研究者でも学者でもない市民が資料館を作るために一つ一つを学びながら準備を進めました。このような経験とスタイルは開館後の企画展や運営の原型となっていきました。
 開館の後も館を充実させる取り組みが行われて、博物館相当施設として指定を受け、寄付に応じて税金が控除されるNPOとしての認定を受けました。
 そして資料館づくりの運動が始まって30年となる今年2025年の5月に開館18周年を迎えます。

 

80=50+30
 前の50年で、戦争を体験した世代が戦争の資料館を作ることを決意し、後の30年ではその夢が実現して今日に至ります。戦争を知らない世代への継承であり、バトンをつないだのだと思わざるを得ません。
 そして18年間ピースあいちは存続してきました。2027年には設立20年を迎えます。
 戦後80年をピースあいちを軸に振り返ると、戦後50年までの50年と、資料館建設を夢見てからの30年を経たのだと言えそうです。
 ピースあいちがこの先10年後に戦後90年、20年後の2045年には戦後100年と続いていくことになりますが、どんなバトンを引き継いでいくのか、戦後80年の新年にあたって考えてみたいものです。