語り継ぎ手の会リボンの例会から
 その1◆被爆体験伝承者 大澤志織さんが語り継ぐ
                   ― 切(きり)明(あけ)千枝子さんの被爆体験 ー

ピースあいち語り継ぎ手の会(リボン)代表 中村桂子





 「平和の大切さを伝えている他団体の方と交流したい」「他の団体で語り継ぎをしている人の話を聴きたい」「語り継ぎをどのように行ったらいいのかな」など、リボン会員の声を聴いてこの度、被爆体験伝承者 大澤志織さんを11月のリボン例会の講師としてお招きしてお話「切明千枝子さんの被爆体験」を伺うことができました。

 大澤志織さんは、愛知県生まれ、東京在住。2021年に広島市の被爆体験伝承者養成研修に参加され、2023年10月より被爆体験伝承者として活動を続けられています。
 大澤志織さんは冒頭で、「被爆体験伝承者とは 、被爆体験者の方がこれまで伝えられてきた被爆体験・被爆者の想いを被爆者の方に代わって次の世代に伝えていく人のことです」と述べられました。


 以下、大澤志織さんの語り継ぎと私(中村桂子)の感想を交えて報告します。
 大澤志織さんが伝えていらっしゃる切明千枝子さんは、現在95歳。今もお元気で、主に広島に来る修学旅行生たちにご自分の被爆体験を伝えている。

広島県立第二高等女学校4年生 15歳の時、爆心地から1.9キロの場所で被爆。ピッカ!目がくらむ閃光!太陽が落ちてきたような光が背後から。爆風で地面にたたきつけられ、どれだけの時間がたったのだろうか気が付くと「カンカン照りの天気だったのに、真っ黒になっていた」。切明千枝子さんは「助けてください!助けてください!」と叫んだのですが、辺りはし~んとして誰かが気づいてくれる様子はなかった。

 これは、大澤志織さんが伝える切明千枝子さんの被爆時の様子ですが15歳の少女の驚き・恐怖が伝わってきます。
 さらに、私は突然の原爆投下で「キノコ雲」の下でどれだけの人たちがこの夏の真っ黒な空を眺めたのだろうと夏の真っ黒な空の下の被爆者の皆様の「叫び」を想像することが出来ました。

 建物の下敷きになっていたため頭や首筋にガラスの破片が刺さった程度の傷で、何とか女学校へ向かうことが出来た切明千枝子さん。千枝子さんが見た光景は・・・
 真っ赤に燃えている家々。真っ黒な煙。/全てがぺっちゃんこ。焼けるものはすべて焼け一面が火の海!/がれきまみれ。道が無い! /ギャーという悲鳴! 服が燃えて川に飛び込んで行く人たち。

 語り継ぎをしていて、「距離をどう伝えると分かりやすいか」が課題ですが、大澤志織さんは、聴いている者がイメージし易いように「爆心地から1.9キロ」の表現を爆心地に〇印が着いた被爆当時の広島市の地図と現在の名古屋市の中心地栄の地図の2枚を提示しながら「名古屋市の中心地テレビ塔から1.9キロの地は鶴舞公園の北側名大病院辺り…」というように私たちが住み慣れた街並みに置き換えて伝えます。また、切明千枝子さんの被爆体験を聴いて高校生が描いた被爆地広島の様子の絵やイラストも提示して、聴いている私たちに「自分が切明さんだったら・・」「そこに自分が居たとしたら・・」とイメージしながら聴いてくださいと訴えられました。

 爆心地から900メートルの所で建物疎開の後片付けに動員されていた下級生の人たちは4人のうち3人の割合で亡くなり、学校まで戻って来ることが出来た下級生の姿は・・・
 全身がやけどで、顔が膨れ上がって真っ黒でドロドロの状態。/誰が誰なのか分からない!/足首や手から真っ黒い昆布かワカメのようなものがぶら下がっている。
 治療はできず、火傷の痛みをやわらぐように家庭科室に残っていた古い天ぷら油を塗ってあげることしかできなかった、火傷痕にウジ虫がびっしりわき、「お母ちゃん痛いよ~」「お父ちゃん助けて~」「痛い!痛い!」と苦しみながら死んでいきました。

 ここで、大澤さんは、私たちに切明千枝子さんご自身が描かれた「校庭で友達を焼いた日1945年8月」の絵を用いて、次々に亡くなっていく下級生たちを校庭で火葬にした時の切明千枝子さんの体験を伝えてくれました。

 「木造校舎のがれきを集め油をかけ遺体に火をつけると、強い火力で全身がぶわぁーと燃え上がり内臓が膨張して足がピュッと上がったり手がピュッと上がったりしたので、びっくり仰天。『先生、動いていますよ。まだ、生きてたんじゃありませんか』と言ったら、先生は、『生きているんじゃない!見るな!』」と。「見るな」と言われても体は金縛りになって横を向くことが出来なく一部始終見てしまった。焼け落ちた下級生の骨は桜色の小さな遺骨でした。泣きながらわら半紙に下級生の名前を書いて遺骨をのせ校長先生の机に置きました。
 9月になると髪は抜け、歯ぐきから出血・皮膚には紫色の斑点・血便などの異変が。悪化していく中ほっとした切明千枝子さん。どうしてほっとしたのでしょうか・・・ 「どうして私だけが生きてしまったのだろうか」この想いは80年経った今も続いています。


 大澤さんが最後に話された 「平和はほうっておくとすぐに逃げてしまう。つかんで引き寄せて離さないように必死で守っていくもの」という切明千枝子さんの想いは、私の心にしみました。「思い出したくない記憶だけど子や孫、罪のない子たちが殺されないように自分の体験を伝えよう」と決意された切明千枝子さん。この想いを受け止めての被爆体験伝承者大澤志織さんの語り継ぎを聴いて、核兵器の使用が心配される今日、被爆体験(戦争体験)者の方々の想いを伝えていくことが平和な世の中をつくる第一歩だと改めて思いました。