子どもの目線の「手作り疎開カルタ」から学ぶ
ボランティア 丸山 豊
とかく多くの平和博物館はパネル文章が長く漢字にルビがないため、小中の児童生徒は素通りしがちです。子どもが関心を示し驚き、疑問を発見するには、文章を簡潔にし、全ての漢字にふりがなをつけることが大事になります。
ピースあいちには、子どもを対象にした準常設展「戦争と動物たち」「戦争の中の子どもたち」(初回展示以来、妻が参画してきた)が用意されていますが、この2つの展示は、大人にも好評です。とにかくキャプションが短く漢字全てにルビがあり、わかり易いからです。また子どもは同世代の目線で考えるので、感性を揺さぶられます。動物が戦争に利用され犠牲になった事実はショックでもあり、これは自分が大好きなペットとして自分事として考えるからでしょう。
一方「戦争の中の子どもたち」では、運動会、修学旅行、学校生活、遊びの日常性に共感し、その平穏を破る疎開、学徒動員、勤労奉仕、少年兵募集に驚き、戦争と直結する生活を同世代の自分として肌で感じるためインパクトも大きくなります。だから子どもの心に「なぜ」をもたらします。課題は「子どもの目線から展示構成ができるか」と同時に、そこから大人が何を学ぶかにあります。
今回は戦中疎開先で、「子どもによる子どもの目線の手作りカルタ」から学んだ一例を取り上げたいと思います。
1.児童の手作りの『疎開カルタ』(読み札と絵札)から見えてくる歴史
名古屋市立露橋国民学校5年生の児童が、8月15日後に集団疎開先で作成した疎開カルタ(2008年に寄贈される)から2組を紹介しましょう。
疎開時期は1944年8月~1945年11月(4年~5年生)の15ヶ月、疎開先は名古屋市から約40キロ北の長良川沿いにある岐阜県美濃町安毛(あたげ)(現美濃市)の曹洞宗永昌院でした。その疎開の地で児童たちは、戦前と戦後を過ごし、名古屋に帰る前にクラス全員でカルタづくりをしました。その手作り「疎開カルタ」に描かれる読み札と絵札には、子どもの目線から捉えた歴史が隠されています。
(1)自作カルタ「シ」に込められた複雑な悲しみ
名古屋は63回の空襲を受け、自分たちの通っていた露橋国民学校も焼失してしまいました。子どもたちは40㎞も離れた疎開先から、名古屋の焼けた空を≪焼夷弾に燃える名古屋の空かなし≫と詠みました。この「シ」の絵札と読み札の作成は8月15日後のいわゆる戦後ですが、いつも名古屋の空を心配し家族を案じていた子どもたちの心が読み取れます。実際肉親を失った児童も何人かいたそうです。赤い空は空襲の空で悲しいのです。
この札一枚からも「名古屋はなぜ何度も空襲にあったのか」と子ども目線から考えなくてはならないことがわかります。
(2)「エ」からわかる8月15日後の疎開先の教育変化
担任の野村先生がカルタ制作を始めたのは8月15日以降です。教師としての自責の念もあったのでしょう。「少国民教育」はしたくない、何をしたらいいのか、その迷いの中で取り組んだのがカルタづくりでした。その中で私が注目した札が「エ」≪ABCと英語の勉強≫です。理由は、読み札からアルファベットを習い始めたと考えられるからです。文部省がローマ字教育を導入したのは、GHQの要求後の1947年ですから、敵性語のABCを敗戦直後に教えたとするなら、文部省による墨塗り教科書実施に先んじてローマ字教育を導入したことになります。この絵札からは、いち早くアルファベットを学ばせた野村先生は解放感一杯で板書している様子とともに、子どもたちのうれしさも伝わります。
戦後教育のスタートを象徴する一枚です。
注:寄贈者の冨田さんは、ABCを勉強したことは覚えていないと語っていました・・・。
2.「疎開カルタ」は子どもの目線から学べる貴重な一級史料
疎開生活も8月15日の敗戦を機に大きく変化したようです。子どもたちは疎開生活を振り返り、その思い出を「読み札」としカルタをアルバムを作るように楽しんで描いたことが一枚一枚から伝わってきます。集団疎開のつらさ悲しさなどより、不思議に楽しさが伝わるものばかりです。
イロハ48文字と絵から、歴史の大きな転換が見えてくるのです。特にこの2組の「シ」「エ」は戦前と戦後を象徴しているだけに、子どもの目線から学べる貴重な第一次史料といえます。
3.おわりに
この「疎開カルタ」を寄贈したのは名古屋市中川区露橋小学校区在住の冨田照彦さんです。コロナ前の2019年夫婦で2回ばかりご自宅に伺い、恩師野村先生が遺された疎開当時の記録をもとにいろいろお話を聞きました。戦後も野村先生を招いて疎開クラスの同窓会も開催しています。空襲、疎開、戦争直後の辛酸など、内容は具体的で細部にわたり、歴史の聞き取りとして大きな意義を感じました。
また持病を抱えているため、カルタをはじめ冨田さんご自宅に保管された日記、回想録、書籍、新聞、写真などの多くの資料が妻に託されました。近年病状が悪化、今年(2024年)の11月3日に逝去されました。
ここ数年この「疎開カルタ」は美濃市や隣の山県市にも貸し出し展示され、一枚一枚から住民との交流、温かさ、サツマイモのおはぎをごちそうになったり長良川の鮎を食べたりと子どもの喜ぶ笑顔も伝わり、新たな歴史の証人になって話題を呼んでいます