“戦争の中の子どもたち“に寄せて

ボランティア・語り継ぎ手の会会員  中川 弘美





 このタイトルの企画展をもうご覧になりましたか?「誉(ほま)れの子」 - 今回、初めて知った言葉です。
 私は、母の戦争体験の語り継ぎをしています。母は昭和5年生まれ。国民学校5年生の時に太平洋戦争が始まり、6年生の4月18日には名古屋に最初の空襲(ドゥリットル空襲)がありました。

 「この日はよく覚えているわ。学校代表として長刀(なぎなた)をかついで鳴海球場へ行ったから。」
 市内の各校から6年生女子の代表が集合したとのこと。翌昭和18年4月に愛知県立第一高等女学校へ入学しましたので、子どもから少女へと成長していく多感な時期に戦争を体験したわけです。
 母の6歳下の妹は、配給の列に並ぶこと、そして米の中に混じっている小石などを取り除くことが仕事の一つでした。
「でもね。並んで待っていても、今日は“なし”と言われることもあるの。だから私は今でも並ぶのはきらい。」
と言っています。
 そして、ごはんのとき、口の中でガチッと石にあたることもあったそうです。
 「大きいお兄ちゃんは何も言わないけれど、小さいお兄ちゃんに言われると、申し訳なさと悲しさで胸がいっぱいになったわ。ちゃんとよく見て、石を取ったつもりだったのにね。」
 そういう叔母の姿は、2年生の女の子に戻ったかのように小さく見えました。

 戦時下を生きた人々には、それぞれの体験と思いがあり、母には母の、叔母には叔母の、そして叔母が知っている少女時代の母、妹から見た姉、いろいろな様相があります。叔母が話をしてくれたのはここ最近のこと。母のことも叔母のことも、語り継いでいきたいと思います。