被団協のノーベル平和賞に、ただただ感涙!
ボランティア・ピースあいち語り継ぎ手の会 中上 寧
来館者や出前講座で父母、父母の兄弟など10人の親族の被爆体験(長崎)を語る筆者
このニュースを知ったのは、成田国際空港の待合室に流れていた、音の無い画像だけのテレビ画面でした。旅行を終え、セントレアに帰る途中でした。
「うそォ!」そして「やったあ!」
真っ先に脳裏に浮かんだのは、私に長崎原爆の話をしてくれた両親、叔父叔母たちの顔でした。そして、古いブラウン管のテレビの中で、国連本部での第2回国連軍縮特別総会(1982 年6月 24 日)で、「ノーモア・ヒロシマ」「ノーモア・ナガサキ」「ノーモア・ウォー、ノーモア・ヒバクシャ」と、山口仙二さんが絞り出すように演説されていた姿でした。
79年前の8月、広島と長崎に落とされた原子爆弾は、一瞬にして双方合わせて10万5千人、その年のうちにさらに11万人の方たちの命を奪い、15万4千人を負傷させました。のみならず後遺症を与えました。
破壊され尽くした町は、復興し、整備され、美しい緑に囲まれるようになりましたが、放射能が傷付けたヒバクシャのDNAは子孫たちに伝承され、後遺症を発現させ続けています。原子爆弾はこのように有形無形の傷を与える悪魔の兵器なのです。
1954年3月にビキニ環礁で水爆実験被害を受けた第五福竜丸事件も、そのきっかけの一つになったとうかがいましたが、1956年8月に日本原水爆被害者団体協議会(被団協)が創設され、活動が始まりました。
被団協が訴え続けてきたことは、「核兵器の使用をやめさせましょう。核兵器を無くしましょう。これ以上ヒバクシャを作らないようにしましょう。戦争を無くしましょう」だけです。
この心根は、1952年8月6日に建立された広島の原爆慰霊碑「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」と同じです。主語の無いこの碑文や被団協の訴えは、「罪を憎んで、人を憎まず」なのです。「原爆を二度と使わないようにしましょう」なのです。
戦争が終わりこれまでの間、被団協の方たちやヒバクシャが訴え続けてきたことは、ひとえに「悪魔の兵器を廃絶したい」だけなのです。その地道な努力が、核兵器の使用を未然に防いできました。これを「世界」が認めてくれた、とてもとても素晴らしい出来事です。
しかし、唯一の被爆国である我が国は、核兵器禁止条約に批准すらしていません。現在の核兵器は大気圏外からマッハ20を超える速度で落ちてくる、現在の迎撃方法ではほぼ防ぐことのできない高性能なものです。核のボタンが一度押されたら止めることはできないのです。
これを使わせないためには、核保有国に核兵器を廃絶させるしかないのです。「核の傘」が妄想に過ぎないことは、我が国の首脳も知っているはずです。2023年に広島に地盤と看板を持つ首相の主催で、G7が「ヒロシマ」で行われました。わずかですが期待しました。しかし、首相の広島出身というのはただの看板だけで、ヒバクシャの思いは無視されました。
6年前、スウェーデンのストックホルムにある、ノーベル賞博物館を訪れました。中には、受賞者の記念品が展示してあります。名古屋大学の益川敏英博士は高校時代に使っていた計算尺を、京都大学の山中伸弥博士はマイクロピペットと電気泳動槽でした。
さあ、被団協は何を記念品として残すのでしょうか。きっと博物館を訪れ見た方が、「心を震わせるもの」を、「被団協の思いを周りの方に伝えなきゃ」と思うものを残してくれるでしょう。
まだまだ活動は続きます。微力でも支援し続けることが必要です。我が国の誇る非核三原則、平和憲法第9条を堅持し続けましょう!「継続は力なり」その言葉を信じます。