企画展「戦争の中の子どもたち」展
運営委員 坂井 栄子
10月1日(火)から子ども企画展が始まります。今年の特別展示は『戦時下の子どもを深掘りする』と称して、「少国民」「誉(ほま)れの子」「三河地震と疎開学童の悲劇」「空襲で焼失した学校」を取り上げます。
戦時下、子どもは「少国民」と呼ばれました。1941(昭和16)年、国民学校が設置され、戦争に協力的な少年少女を育てるために天皇制が教育の中心となりました。国民学校と並んで大日本青少年団の活動が少国民を育てました。
自由参加であった大日本青少年団に国民学校単位で加盟することになり、子どもたちは強制的に団員となりました。このため、子どもたちは学校の外でも厳しく管理されることになりました。
活動の一環として、毎朝の登校が集団登校となりました。班単位で行動し、奉安殿に最敬礼することから始まって、様々な儀式や行事に参加しなければなりませんでした。
国民学校や大日本青少年団が少国民の錬成を学校内外で担うのに対して、1942年に発足した日本少国民文化協会は娯楽を通じて子どもを錬成しようというものでした。子どもの楽しみである紙芝居も教育的なものとなりました。朝日新聞の『週間少国民』や毎日新聞の『少国民新聞』も、子どもたちに軍国主義を植え付けていきました。
父親が戦死した子どもは「誉れの子」と呼ばれました。全国から選ばれた遺児たちは靖国神社に参拝し、亡き父と『社頭(しゃとう)の対面』をさせられました。日比谷公園で行われた式典では首相、陸軍、海軍、厚生大臣らによる直接の訓示や訓話が行われ、地方からの場合は東京見物をしたうえで皇后陛下からのお土産がもらえました。一大国家行事であるこの式典の模様はラジオ放送され、新聞でも大きく伝えられました。
中でも国策を宣伝する雑誌『写真週報』の表紙を飾った感激で涙を流す「誉れの子」は、近年、「目薬を垂らして撮影された」と告白されたようです。その他にも戦争指導者である東条英機首相が遺児をやさしく激励する写真は、東条首相が亡き父に代る慈悲深い父親であるというイメージを植え付けました。
「誉れの子」は他の子どもたちだけではなく、国民の模範でなければなりませんでした。本来、父を失って寂しいし、悲しいことなのに、父の後を継ぎ、立派に成長し、お国のために尽くすようにと諭されるとは、遺児にとって何とつらいことだったのでしょう。
「三河地震と疎開学童の悲劇」「空襲で焼失した学校」は以前にも展示したことのあるパネルです。