「なごや平和の日」の2つの源流 後編
当NPO法人理事 西形 久司
今年からスタートした5月14日の「なごや平和の日」。その制定に関わった一人として、そこに至るまでの経緯を語り残す責務を負っているのかなと思っています。前号では源流の一つとして戦災傷害者の運動をとりあげました。今回はもう一つの源流である高校生の運動について書きたいと思います。
「平和の碑」(東邦高校)
東邦高校(名古屋市名東区)のエントランスには、戦後50年の年(1995年)に、動員先の三菱発動機の空襲で亡くなった先輩と教員の慰霊のために建てた「平和の碑」があります。全校生徒が毎日この「平和の碑」の前を通っていることになります。
この碑文が優れているのは、「先の大戦」とか「我が国の」といったような限定する文言がなく、「戦争の犠牲となられたすべての方々」、つまり時代も国境も超えたすべての戦争犠牲者に向けて平和を誓っていることです。未来の担い手を育てる学校という場にふさわしいものだと思います。
その思いが脈々と受け継がれていることは、あとでふれる5月14日の「なごや平和の日」の式典で東邦高校生が発表した感動的なメッセージにも表れています。
東邦高校(戦時中は東邦商業)の生徒・教員が亡くなったのは1944年12月13日の空襲のときでした。それで毎年その前後になると、校長先生が全校生徒にそれにちなんだ講話をするのですが、2学期末試験を終えたあとの解放感に満ちたタイミングなものですから、生徒の方は気もそぞろであることが多かったようです。
この様子に心を痛めたのが、広島出身の磯部翔馬くんでした。平和教育が根付いている広島では、信じられない光景でした。そこで磯部くんは周りの「話の通じる」友だちに少しずつ働きかけ、ついには生徒会が名古屋市議会に請願書を提出するに至りました。
と書いてしまうと、それだけのことと思われてしまうかもしれませんが、そこには前史がありました。東邦高校は2014年にいちど名古屋市に要望書を提出したのですが、それは実りませんでした。高校生は3年で卒業してしまうので、せわしなく世代交代が進みます。それでも途中で頓挫しなかったのは、東邦高校には平和実行委員会という生徒の組織と先生たちの寄り添いがあったからだと思います。
磯部くんは「自分たちは戦争体験を直接聞くことのできる最後の世代なのではないか」との思いがあり、市議会への働きかけも「躊躇はなかった」とのことです。やはり「なごや平和の日」に至るまでには長く曲がりくねった道があったのでした。
名古屋市による「名古屋空襲慰霊の日制定協議会」の発足に先立って、2023年5月6日、「名古屋空襲祈りの日(仮)に提案する市民集会」が開催され、100人ほどの参加者のうち3分の2が高校生でした。東邦高校のほか金城学院高校の生徒たちもプレゼンをおこない、フロアからも高校生が盛んに発言をしました。参加した河村市長も、高校生からの「戦争について学ぶ機会を増やしてほしい」といった要望に耳を傾けていました。
その後、制定協議会の議論と並行する形で、高校生の活動も進められました。8月10日、名古屋市公会堂で高校生ワークショップが開催され、高校生はいくつかのグループに分かれて活発な討論をおこない、その成果をグループごとに発表しました。市民に知ってもらうために、野球のドラゴンズのホームゲームで平和を訴えようという発案は、このワークショップで出されたものでした。これは翌年5月25日のスワローズ戦で実現しました。
ここで見落としていけないのは、ワークショップで高校生にいきなり議論してごらん、と言っても無理なので、グループのリーダーとなる高校生に事前に集まってもらい、当日の進行の仕方について打ち合わせをしたうえで、当日に臨んでいることです。つまり高校生の自発性を引き出すための手順をきちんと踏まえているのです。
制定協議会での意見をまとめ、市長に提案したのは9月21日のことでした。これまで市議会での議論が頓挫したのは、名古屋の場合、繰り返し空襲を受けているので、どの日を空襲の日とするかで意見がまとまらなかったからでした。そこで協議会では、わかりやすさを優先して名古屋城が焼けた5月14日としました。
空襲の日ではなく「平和の日」としたのは、空襲の背後にある戦争そのものを見すえていこうとの思いがあったからでした。あわせて市長には、高校生の働きかけが制定につながったのですから、単なるセレモニーに終わらせず、「学び」の要素を必ずいれてほしいということ、そしてこれはゴールではなくスタートに過ぎないということを確認しました。市議会では全会一致で「なごや平和の日」を定める条例が可決されました(制定は2024年4月1日)。
条例は4カ条から成りますが、その第3条は「平和意識の醸成を図るための取組を行う」となっています。この文の主語は「市及び市民」です。名古屋市も、一人ひとりの市民も、平和の意識に対する責務を負うことになったのです。醸は醸す(かもす)という意味ですから、じっくりと時間をかけて熟成させていかねばなりません。あせってはいけないのです。
平和を希求し、ついに行政まで動かしてしまった高校生は、とてもすてきな若者たちです。5月14日の「なごや平和の日」の式典で東邦高校生が発表したメッセージを、最後に紹介したいと思います。全文を載せるスペースはありませんので、2点に絞ってみます。
一つは、「戦争の記憶を風化させない」ために「戦争の記憶」と「平和の大切さ」を伝えることは自分たちの「使命」であると宣言していることです。「使命」という重みのある言葉で「平和」への「使命」を引き受けようというのです。
もう一つは、いま海の向こうで起きている戦争は、他人事ではなく「自分事」だと言い切っていることです。「相手の身になって考える」「見て見ぬふりをしない」という、日頃から家庭で、あるいは学校で、おとなから聞かされている言葉を学びとり、今度は自分たちの言葉として発信しています。海の向こうの出来事を自分たちの日常に引き付けて受けとめようというのです。そして「未来の世代に平和な地球を引き継ぐ」ために「私たちの声」を「沈黙させてはならない」という力強い言葉で締めくくっています。
平和のバトン、誰に渡したらいいのだろうと迷っていたおとなたち。引き受けようと手を差し伸べている若者たちがここにいます。
民間戦災傷害者の思いと高校生の願い。この2つの源流が一つになり「なごや平和の日」が生まれたのでした。
追記
8月3日の朝日新聞名古屋本社での記者イベント「なごや平和の日×若い力」に参加した高校生やOBの発言から……。
「自分たちには力がないと思っていた。ところが市議会に働きかけたら、背筋を伸ばして聞いてくれた」
「知らなければ行動できない。知るためのきっかけさえあれば行動する」
(音楽科に在籍する高校生)「修学旅行の行き先がオーストリアで、マウトハウゼンの強制収容所跡も見学した。その夜はとうとう眠ることができなかった。このことがきっかけで平和の活動に参加するようになった」