夏の戦争体験を語るシリーズ 2024

                                           
 

 「2024年 戦争体験を聴くシリーズ」が8月1日(木)から15日(木)まで計11回開催されました。連日の猛暑にもかかわらず毎回満席の中、ピースあいちの語り手、語り継ぎ手の方たちが、日替わりでお話しました。6日、9日、15日にはオンライン配信も行いました。お話を、ピースあいちのボランティアが報告します。
 また他にも、「愛知・名古屋戦争に関する資料館 戦争体験を聴く会」など、各地の催しに語り手、語り継ぎ手が参加し、お話ししました。

井戸 早苗さん

8月1日(木) 井戸 早苗さん(85歳)
「空襲下での暮らし、戦後の暮らし」

 空襲のときは、火災から町内を守るために防災隊として残る両親と離れ、一人で逃げました。「防毒面」と呼ばれるマスクと「鉄かぶと」と、「お米さえあれば大人は絶対助けてくれるから」と両親に言われ、米を背負って逃げました。空襲警報が鳴る中、寒く、暗い夜道を「なぜいっしょに逃げてくれないの」と思いながら、たった一人で防空壕に向いました。
 ウクライナやガザの報道をみて、自分が生きている間にまたこんな事態がおこるとは思わなかった。人と人が殺し合う戦争に正義はない。戦争は一度始まってしまったら途中では止められない。いかに戦争が始まらないようにするか、そのために何ができるのか、若い人にも考えてほしい。(林 記)



望月 菊枝さん

8月2日(金) 望月 菊枝さん(94歳)
「学徒勤労動員体験」

 1944年、女学校2年生の2学期から授業はなくなり、工場への勤労動員が始まりました。B29による空襲が激しくなり、作業を学校に移し、校庭には防空壕が作られました。
 翌年1月23日午後、警戒警報で壕に入り、空襲警報が鳴るとすぐに爆音が鳴り響きました。壕を出ると、今まで見たことのない光景が広がっていました。5~6mの大きな穴ができ、土の中から血まみれの体の一部が見えていました。42人の生徒が犠牲になりました。
 8月15日に戦争が終わって、電灯を覆っていた黒い布を外した時、その明るさに安堵や希望を感じました。戦争は武器と武器の戦いだけでなく、普通の日常が突然壊されるということです。朝、笑顔で「行ってきます」と家を出た娘の「ただいま」がない。本当に理不尽なことです。(村林 記)



小澤 美由紀さん

8月3日(土) 小澤 美由紀さん(語り継ぎ手の会)
「トラック島に眠る志願兵17歳」

 大叔父の戦争体験を語り継ぐ小澤さんは、歴史を学ぶためともう一つ、祖父母が生きている間に大叔父のことや戦争についてもっと話を聞いておくべきだったという後悔から、語り継ぎ手になった。
 小澤さんの大叔父である等さんは、16歳で海軍に入り、17歳という若さで、トラック島で亡くなった。等さんが乗っていた戦艦が沈んでいく様子のお話では、恐ろしい戦争の様子を鮮明に想像することができた。
 「望まない別れはあってはならない」という小澤さん。これはいつの時代でも起こってはならず、しかし今でも世界中で起こっていると話された。いつか我が家に等さんの遺骨が戻ってきてほしいと願う小澤さんからは、亡くなってしまっても、一度も会ったことがなくても存在する家族の絆を感じた。(清水 記)



佐々木 陽子さん

8月6日(火) 佐々木陽子さん(語り継ぎ手の会)
「私のヒロシマ」

 広島出身の佐々木さんは、ご自分のご家族の戦争体験をもとにお話をされました。
 自分の生まれた地のことを知りたくて調べていくうちに出会った紙芝居「可部に舞い降りた落下傘」。その作品を作ったのは学校の先生をしていた父方の祖父をよく知る人物であった。原爆投下後、その威力を確認するためにアメリカが投下した落下傘。それが何かも分からず爆弾かと逃げ惑う人たちを描く。
 一方、母方の祖母は、日記を家の戸棚にしまったまま、戦後もずっと語ることをしなかった。日記には、原爆症になった夫(祖父)を看取るまでの5日間の詳細な記録があった。その中では原爆が「広島大空襲」と表現されており、原爆であったことも知らず、ただただ必死に看病していた様子が伝わってくる。
 佐々木さんは、「人の数だけ戦争体験はある」という。佐々木さんがご家族のことに思いを寄せ、丁寧に調べ、語り継ぎをしてくださることで、私たちも、その心の奥の思いの一端に触れることができたのだと感謝を伝えたい。(高野 記)



  富田 祥子さん

8月7日(水) 富田 祥子さん(82歳)
「北朝鮮からの引揚体験」

 昭和17年、現在の北朝鮮の茂山で生まれました。3歳の時に終戦を迎え、10ヶ月かけて日本に帰還しました。
 父は戦地に出征しており、母と1歳半の妹と祖母での逃避行となりました。昼は山の中で過ごし、夕方に火を焚いて夕食と野宿。周りでは極限状態の中、子どもを川に溺れさせる人や、子どもを食糧やお金に交換する人もいました。子ども一人150円だったそうです。逃避行の最中、寒さ、飢餓、栄養失調、発疹チフスで毎日多くの死者が出ましたが、そのまま捨てられていきました。38度線を超えると収容所に入れられました。この間も発疹チフスで亡くなる人や、親が亡くなり数日後に飢餓と寒さで亡くなる子どももいました。
 1946年6月、安山から日本に帰る船で帰還しました。富田さん、4歳の時でした。(瀧 記)



森下 規矩夫さん

8月8日(木) 森下 規矩夫さん(86歳)
「名古屋空襲体験、戦中・戦後の生活」

 現在のバンテリンドーム ナゴヤ付近で生まれた森下さんは小学生の頃、名古屋空襲に遭い、親戚の住んでいる三重県の鈴鹿市に疎開した。名古屋で空襲に遭った当時は、神社の近くの森にある防空壕に避難したものの、何が起きているか分からず、とにかく早く終わることを願ったという。空襲が終わると建物と共に人が消え、警報で眠れない日々を送った。疎開先では、空襲はないものの、生活環境が大きく変わり、苦しい生活が続いた。森下さんはそこで終戦を迎える。その日々は、思ったことを言えないような無言の圧力があったという。
 森下さんは、軍の独裁で戦争に進んだ過去を見つめ、民主主義の現在、平和を守るために行動することの大切さを最後に説いた。(北川 記)



大山 妙子さん

8月9日(金) 大山 妙子さん(語り継ぎ手の会)
「叔父・伯母の長崎原爆」 

 大山さんは中学の時に原爆に関心を持ち始め、父から叔父(当時17歳)と伯母(当時24歳)の原爆体験を聞いた。
 叔父は、陸軍特別幹部候補生として入学を志願したが不合格となり、兵器工場で働いていた。そこに原子爆弾が落とされてしまった。伯母は平戸に嫁いでいたため、長崎に原爆が落とされたことを後から知った。長崎の家族と会った後、平戸に食料などを取りに帰ったが、その間に弟妹が死んだことを聞かされた。原爆で8人、病気で2人、計10人の家族が1年間で亡くなってしまった。大山さんは、「ノーモアヒロシマ、ノーモアナガサキ、NO MORE WAR」と訴え、話を締めくくった。(大矢 記)



中川 弘美さん

8月10日(土) 中川 弘美さん(語り継ぎ手の会)
「母の戦争下の青春」

 母は青春時代を戦争の中で過ごした。吹上尋常小学校に通っていたが、国民学校に名前が変わり、小学校時代は「慰問(傷病兵の見舞いなど)」をしていた。1942年4月、名古屋で一回目の空襲(ドーリットル空襲)があった。
 1943年、母は女学校に入学した。しかし満足に勉強できず、学徒勤労動員のもと、農園や工場での労働や、徴兵事務の手伝いなどを強いられた。そんな中でも、母はお気に入りのはがきや色紙を集めていて、現代の女の子と変わらない心を持っていた。その後も空襲や爆弾の音に恐怖を感じながら労働を続けたが、ついに1945年3月の空襲で女学校は燃えてしまった。
 母は、終戦を迎えたときのことを、「やっとゆっくり寝られると思った」と振り返っている。(大矢 記)



木下 信三さん

8月13日(火) 木下 信三さん(89歳)
「岐阜県での学童疎開体験」

 日本本土への空襲が激しさを増した1945年3月末、国民学校5年生だった木下信三さんは、2歳年下の妹、美智子さんとともに、岐阜県福岡村へ集団疎開をしました。「豆かす(大豆を絞ったもの)、かぼちゃの干したもの、野草などが入った雑炊ばかりで、とにかく食糧事情が悪かった。」と木下さんは辛い疎開先での生活を話されました。
 もともと体が丈夫ではなかった美智子さんは、栄養失調になり、何日も下痢が続くという状態でした。まもなく父親が名古屋へ連れて帰りましたが、戦後も美智子さんの体力が回復することはなく、中学卒業後に亡くなります。美智子さんがこの世を去ったのは、木下さん兄妹が学童疎開へと旅立ったのと同じ、3月31日のことでした。(近藤 記)



松下 哲子さん

8月14日(水) 松下 哲子さん(90歳)
「在満少国民の体験」

 昭和9年に満州で生まれ、敗戦の翌年の昭和21年8月の引き揚げまでを過ごしました。満州では空襲に遭うことや、ひもじい思いをすることはなく、恵まれた生活を送っていました。冬に学校の外で、スケートをして楽しかったことを覚えています。しかし、昭和19年頃に戦況が悪化し、授業のない日が多くなり、郊外に行って飛行機の燃料のためのヒマの種を撒き続けました。終戦の8月15日、玉音放送を直接は聞かなかったのですが、周囲の人が泣いていたことや植民地支配が終わって朝鮮人が楽しそうにしているのを見て、長い戦争が終わったことを実感しました。
 松下さんは、これからの世代の平和を願うとともに、自分で考えることの必要性を訴えました。(上野 記)



八神 邦子さん

8月15日(木) 八神 邦子さん(89歳)
「学童集団疎開」

 昭和19年8月、御園国民学校3年生の9歳の時、先生の引率のもと、三重県伊勢市に学童集団疎開しました。すぐに一身田のお寺に移りました。100人の児童に教師2人、寮母2人。細かいところまでは手が届きません。
 「さびしい」 ― 親は月1回ほど会いに来てくれたがやがて来なくなりました。「ひもじい」 ― イナゴやカエル、ヘビまで食べました。ノミとシラミの発生でかゆいかゆい生活。想像を絶するような苦しい日々を過ごしました。
 1年3か月ぶりに名古屋へ帰り、焦土と化した姿をみた時、多くの人々が家をなくし生死不明となったことを知りました。引き取り手のない学童たちをみた時はたいへんショックをうけました。浮浪児、戦災孤児たちへの国の支援も不十分でした。あんな悲惨な戦争を2度と起こさないように。と力強く私たちに語ってくださいました。(巽 記)