愛知サマーセミナー2024◆「ちむぐりさ 菜の花の沖縄日記」上映会
ボランティア 吉田 稔
7月15日、愛知サマーセミナーでピースあいちは、「ちむぐりさ 菜の花の沖縄日記」上映会を開催しました。この映画上映は、ピースあいちが毎年6月に開催している「沖縄展」に合わせた沖縄関連の映画の上映にご寄付をいただいている小島敬さんにご協力いただいて実現しました。
上映にあたって、小島さんは「沖縄への思い」をお話しされました。
「沖縄に関心を持つきっかけは、沖縄で戦死した伯父(母の兄)の慰霊の旅でした。伯父は陸軍の衛生兵でした。沖縄の地上戦で亡くなりました。今から30年前、母を連れて沖縄へ行きました。慰霊の旅で、母の涙を初めて見ました。戦後50年近い歳月がたっていたのに、母の悲しみはずっと続いていたことを知りました。その時、沖縄のことを知りたいと強く思いました。上映会を続けて一つだけ分かったことがあります。それは、「きょうの沖縄は、明日の日本」ということです。」と。
映画は、能登半島珠洲市で旅館「坂本」を営む家庭で比較的自由に育った坂本菜の花さん(当時15歳)が、沖縄のフリースクール「珊瑚舎」に通う3年間とその後のドキュメンタリー作品です。
この映画作りに最初に関わったのは、「北陸中日新聞」に菜の花さんの“菜の花の沖縄日記”を連載した東京新聞の中山洋子さんでした。中山洋子さんも映画の中で紹介されます。また、3年半にわたって掲載された“菜の花の沖縄日記”をパソコンで綴る菜の花さんの姿も映像に現れました。
菜の花さんが一番知りたかったことは、戦争体験をしているおじい・おばあが「なぜ明るいか?」でした。夜間中学に通うおじいやおばあと交流する中で、「73年前には、戦争が激しくて勉強などやっていられなかった。明るくないとやっていけないくらい暗いものを知っているから」と、菜の花さんは思うのでした。
沖縄テレビのドキュメンタリー番組の取材が始まった高校3年の後半から、沖縄の人たちとの対話も増えていきました。そして卒業し、能登に帰ってからも沖縄への想いが続きます。「北陸中日新聞」に菜の花さんが書いた「追悼 翁長雄志」。辺野古の海の埋め立ての是非を問う県民投票の時に再び沖縄に駆け付け、17歳以下の若い人にも辺野古について考える権利があると、シール投票を呼びかける19歳の菜の花さんの姿も映し出されます。そして最終章の『辺野古で涙が止まらなくなった』では、菜の花さんは沖縄と一体化していました。
映画の上映が終わった後、ピースあいちボランティアの山内あおいさん(高校3年生)と黒田千尋さん(高校3年生)が感想を語りました。
山内さんは、「修学旅行で行った場所は、読谷村渡具知(とぐち)海岸でした。そこは、沖縄戦で米軍が初上陸した歴史を持つ場所だったのです。友達と海が綺麗!広い!と騒ぎまくり、ウェディングフォトまで行われていたあの場所が79年前は戦場で、青い海は戦艦で真っ黒に埋め尽くされていたとのことです。本当に恐ろしく、衝撃的でした」と。
黒田さんは、「映画の中で、菜の花さんが沖縄の米軍基地問題について考えたり、その問題に直面する地元住民の思いに寄り添ったりする姿はまさに「ちむぐりさ」という「悲しみ」そのものを体現しているように思えてなりませんでした」と。
二人の感想に感動して、自分も自主上映会をしたいという方1名と団体の方2名が、この映画の配給元「太秦」の電話番号と住所を確認していきました。