「なごや平和の日」の2つの源流 前編
当NPO法人理事  西形 久司

                                           
 

今年からスタートした5月14日の「なごや平和の日」。その制定に関わった一人として、なぜいま「なごや平和の日」なのか、その意義にふれてみたいと思います。 「なごや平和の日」には2つの源流があります。

展覧会場の様子1

ピースあいちの常設展示のパネルから

 その一つは、戦災傷害者の運動です。ここで注意していただきたいのは障害者ではなく「傷害者」であるという点です。2016年に101歳で亡くなられた杉山千佐子さんたち、運動を進めてきた人たちのこだわりがここにあるのです。
 杉山さんたちは、旧軍人・軍属やその遺族に対しては、国は恩給というかたちで手厚い扶助をおこなっているのに、民間の戦災傷害者に対しては、国と雇用関係がないことを理由に何の補償もおこなわれていない。国が起こした戦争で傷害を負ったという点で、軍人も民間人もかわりがないのに、このような差があるのはおかしい。国は民間の戦災傷害者に対してもきちんと謝罪し補償すべきだと主張してきたのでした。
 とくに杉山さんたちは、外国の同じような立場の人たちと交流するなかで、旧西ドイツでは民間戦災傷害者が手厚い補償を受けていることに驚きます。同じ敗戦国なのになぜこのような差があるのか。杉山さんたちはなんとか議員立法で、民間戦災傷害者に対する援護法の制定を実現できないか、繰り返し国会議員に働きかけますが、毎回審議未了で廃案に追い込まれてしまいます。亡くなる直前の杉山さんの言葉は「もういい。棄てられたままで」だったそうです(全国空襲連HP)。

 

 このように国がなかなか動こうとしないなかで、名古屋市はささやかながら見舞金を支給することにしました。私自身は、この制度が発足した時から、見舞金を申請した人たちについて、個別に審査する審査員を務めてきました。審査会には、被災者の被災当時の報告書、それを傍証する人の報告書、さらに傷害を受けた部位の写真などが提出され、私を含む4人の審査員で個々に検討していきます。4人のうちの2人は医師です。
 部位の写真は焼夷弾によるケロイドなどが多いのですが、医師はそれを見て「シュウジョウハンコン」と診断します。にわかに漢字変換できないので、聞いてみると「醜状瘢痕」と表記するのだそうです。専門家の客観的な言葉で「醜い」と言われ続けたことになるのです。

 

 本人の報告書は、たとえば3歳の時に被災した人などは、親からそう聞いた、その親はすでにこの世の人ではないといったケースがあります。そのような場合、被災の日時などは往々にして誤っているのですが、本人の供述のなかには、必ずその現場にいた人でないと知らないような事実が含まれています。私の役割はそれを見つけ出して「ゆえに空襲の被災者に相違ない」と判定することでした。申請者をただの一人も落とさずに済んだのは幸いでした。
 部位の写真も、医学の専門家でない私には衝撃でした。こんなケースがありました。爆弾の破片か銃弾が貫通した人なのですが、そのような場合、入り口は小さいのですが、体外には、周りの肉をえぐって飛び出すので大きな傷口となります。その人の場合も、体の前面の鼠径部にある射入口は小さいのですが、臀部つまりお尻の射出口は大きく肉をえぐっていました。お尻の肉を片方だけ失ったために、その人は座ることができません。腰掛けるということのない人生を送ってきたのでした。しかも鼠径部の大動脈の位置を、ほんの数ミリ外れて貫通していたために、奇跡的に命をとりとめることができたのでした。このように空襲は生涯にわたる爪痕を残します。なんとかこのような、傷を負ったまま戦後の人生を生きてこられた人たちに、わずかでも光を届けたいとの思いでした。全国でも民間人を対象とした制度をいまだに続けているのは名古屋市だけということです。
 もう一つの源流は高校生たちの運動なのですが、これについては次の号で。