第11回寄贈品展によせて―オープニングイベントから
ボランティア 川越 敏行
12月5日、第11回寄贈品展が始まりました。当日11時からオープニングイベントが開かれ、寄贈してくださった4人の方々が、寄贈品にまつわるエピソードなどを話してくださいました。その様子をご紹介します。
オープニングでお話しいただいた渡辺洋子さん、岡出とよ子さん、安藤由美子さん、細井博充さん。(右から)
1.寄贈者 渡辺洋子さん
渡辺洋子さんの父、大内 峻さん〔1913(大正2)年生れ〕は1942(昭和17)年に召集を受け、ラバウルに出征、ガダルカナル島撤収作戦等に参加し、1946年に復員されました。
寄贈品は、大内 峻さんが召集から復員までの体験をまとめた手記などです。
渡辺洋子さんは「私が2歳半の時、父が召集を受け、6歳半の時、南方から帰ってきました。自宅にお客さんが訪れるたび、父は自身の戦争体験を話していました。父はガダルカナル島から撤収する時、始めのうちは兵士の死体を拝みながら、よけて通っていたが、疲れなどでそれもしなくなり、死体を踏んで歩いた、などと話していましたが、私はそのような戦争の話は聞きたくなかったことを覚えています。」などと話されました。
2.寄贈者 岡出とよ子さん
岡出とよ子さん〔1940(昭和15)年生れ〕のご両親は、戦時中、特攻(敵の艦船等へ体当たり攻撃する)を志願する兵士たちが寝泊まりする寮を、三重県で営んでいました。訓練課程を終えた隊員が特攻出撃するまでの間、暫し休息するための寮です。寄贈品は特攻兵士が出撃する前に心情を残した、「辞世の句」(レプリカ)などです。
岡出とよ子さんは「私は当時5歳ぐらいで、毎日、兵隊さんたちに遊んでもらって楽しかったことしか覚えていません。出撃の日、ひとりの兵隊さんが私を痛いくらい抱きしめてくれました。私は離してと言いたかったですが、それは言いませんでした。いつか帰って来ると思っていました。後年、沖縄で兵士の銅像を見たことがきっかけで、「辞世の句」を沖縄の護国神社に寄贈しました。」などと話されました。
3.寄贈者 安藤由美子さん
安藤由美子さんの父・光崎(こうさき)武夫さん〔1922(大正11)年生れ〕は、1941年、陸軍士官学校卒業後、陸軍大尉として大連、ジャワ島、満州等へ赴任しました。戦後も戦友会に招かれ、部下との交流が続きました。寄贈品は旧陸軍軍服や日記等、光崎武夫さんの遺品です。
安藤由美子さんは、「軍服などは母が時々陰干しして、大事に保管していました。父は、自分は運が良かった。新しい赴任先へ行ったあと、元の赴任地は戦地となった。人を殺さずに済んだと言っていました。軍隊では上官が部下を殴ることは日常茶飯事でありましたが、父は部下の心情を考えると、それはしませんでした。赴任地では、隊員の身の上相談にものり、慕われていたようです。」などと話されました。
4.寄贈者 細井博充さん
細井博充さんの父・細井芳男さん〔1924(大正13)年生れ〕は、1939(昭和14)年に満蒙開拓青少年義勇軍に入隊し、満州(現:中国東北部)に渡りましたが、1945年8月の終戦直前、旧ソ連軍の侵攻に遭遇し、捕虜生活の後、1949年11月に帰国しました。2005(平成17)年に亡くなる、その5年ほど前から、義勇軍での体験を漫画に描き、冊子にしました。寄贈品はこの漫画集です。
細井博充さんは、晩年、父親が語った、旧ソ連軍侵攻後の交戦の凄惨な場面や、4年余りの捕虜収容所の苛酷な生活について、話してくれました。
「父は兵隊ではなかったのですが、兵隊と同様に扱われ、旧ソ連兵と交戦しました。戦車が向かって来たので、上官が地元の民間人に、地雷を背負って戦車に突っ込めと命令しましたが、その民間人は突っ込むことができずに戻って来ました。上官は休んでおれと言いましたが、次の瞬間、拳銃で撃ち殺しました。」「父からの話が衝撃的で、いつまでも脳裏から離れません。」などと話されました。
寄贈者のお話からは、戦争末期の日本の切迫した雰囲気や、戦場の凄惨な様子が伝わってきました。寄贈者は異口同音に、「戦争は決して、してはいけない」と話されていました。この言葉をしっかりと、心に刻みたいと思います。