2023年 ピースあいち夏の戦争体験を聴くシリーズ

                                           
 

 「2023年 戦争体験を聴くシリーズ」が8月1日(火)から12日(土)までの間に計10回開催され、ピースあいちの語り手、語り継ぎの方たちが、日替わりでお話しました(予定していた8月15日(火)の八神邦子さんの語りは、台風7号による暴風警報が出されたため中止となりました)。5日、9日にはオンライン配信も行いました。お話を、ピースあいちのボランティアが報告します。
 また、「愛知・名古屋戦争に関する資料館戦争体験を聴く会」など各地での催しに語り手、語り継ぎ手が参加し、お話しました。



田中 玲子さん

8月1日(火) 田中 玲子さん(語り継ぎ手の会)
「父の戦争・堤茂子さんの戦争」

 戦争について語ることのなかった父の思いを知るために、語り継ぎ手になった田中さん。自分の住む身近な場所であった「熱田空襲」について、語り手をされていた堤茂子さんの体験を、桜井純(さくらいあつし)さんが遺された熱田空襲の絵とともにお話しされました。
 学徒動員で働いていた愛知時計電機船方工場で空襲にあった。たった8分で2,068名の命が奪われた。13歳だった当時のその光景を生々しく語る堤さんと、桜井さんの絵が映像で映し出される。「戦争はなんて愚かでみじめなものか」と堤さんは言う。
 田中さんは、「私たち語り継ぎ手ができることは、堤さんたちの思いを語り継ぐこと。戦争とは何なのかを皆さんがそれぞれで考えていってほしい」と締めくくられました。 (高野 記)


佐藤 誠治さん

8月2日(水) 佐藤 誠治さん(89歳 語り手の会)
「空襲・学童疎開体験」

 幼い頃の戦争体験を鮮明に力強く語る姿からは、戦時中の厳しさを耐え忍んだ経験や、苦しかった経験を若者に伝えたいという強い思いを感じた。米軍による機銃掃射から必死に逃げた体験や、空襲から逃れるために家屋の床下の防空壕に入り、そのまま蒸し焼きになり亡くなった方々の遺体やその遺体が乱雑に扱われる光景を目にした体験、また青少年学徒として働き、勉強することもできず悔しい思いをした体験などを語ってくださった。  教育勅語を現在でも暗記しており、語りのなかで諳んじる姿からは、子ども時代の戦争体験の根深さを感じることができた。ただひたすら我慢の日々だった当時と現在を比べ、今ある当たり前の生活が当然ではないこと、とても恵まれており、平和で豊かであるということ、また戦争というものの悲惨さを、私たちのような戦争を経験していない世代に語りを通して伝えてくださった。(大井 記)


高山 孝子さん

8月3日(木) 高山 孝子さん(88歳 語り手の会)
「空襲・疎開体験」

 高山孝子さんは1935年に生まれ、生まれた時点では少し平和であったが、物心ついた頃には食料がなくなっていた。8歳から国民学校になり、軍国少女であった高山さんは敗戦するまで日本は勝つと思っていたと語った。1944年3月に縁故疎開で東京から岡崎へ移り住んだ。同年暮れ、高山さんはそこで空襲にあう。岡崎では貧しい生活を送り、風呂にはなかなか入れなかったため川で泳いで風呂の代わりにしていた。
 語りの中で高山さんは「戦争はしてはいけない」と何度も言った。高山さんは違ったが、「戦争孤児が一番辛かったと思う」とも語った。また、この体験を「良い経験をした」、さらに「普通の生活が普通にできることが一番」とも語った。 (余語 記)


中野 見夫さん

8月4日(金) 中野 見夫さん(84歳 語り手の会)
「空襲体験」

 昭和20年6月9日の熱田空襲は、8分間の爆撃で2068名もの死者を出し、愛知時計電機などに学徒動員された若い命も犠牲になった。当時、私は船方国民学校一年生。熱田区六番町の実家の専光寺には、負傷した人が運ばれたが、高齢の目医者が傷口を消毒するだけだった。境内は遺体安置所となり、リヤカーで棺おけや工場の四角い箱が運ばれて大人がハンマーで遺体の関節を打ち、収めていた。遺体が増え荷馬車に直接積まれ、やがて遺体は引き取られないまま放置され、白いうじが湧き死臭が立ちこめた。今も目に焼き付いているのは、綺麗な母親の遺体に寄り添う上半身のない赤ちゃんの姿…。子ども心に「戦争は、むごいものだなぁ」と、思った。(橋爪 記)


佐々木 陽子さん

8月5日(土) 佐々木 陽子さん(語り継ぎ手の会)
「私のヒロシマ」

 戦争体験は人の数だけある。そう言って、自身の祖母の日記をもとに語った佐々木さん。 8月6日に広島に原子爆弾が落とされ、大勢の命が亡くなった。爆心地に近い人間は身体が炭化して姿形も残らない。爆心地から離れていても熱線で皮膚はただれて、水をもとめて彷徨した挙句に息絶えた。 しかし、原爆の被害はその日を生き延びた人たちにも確実に魔の手を伸ばしていた。
 佐々木さんが取りだした日記は、原爆症になった祖父を看病していた祖母が綴った、祖父が息絶えるまでの5日間の記録である。愛する人が目の前で衰弱していく姿を記したその日記は、戦争による被害をより鮮明で細やかに私たちに伝えてくれた。全員が笑顔で幸せになる世界を実現したい。そのために私はこの日記とともに戦争を語るのだと佐々木さんは言っていた。 (中川 記)


萩原 量吉さん

8月8日(火) 萩原 量吉さん(83歳 語り手の会)
「空襲・疎開体験・ゾウ列車に乗って」

 象の前で級友たちと撮った記念写真を示しつつ象列車の話から。小学校3年生(1949年、9歳)のとき、遠足で東山動物園に行き、象の背中に乗せてもらった、写真の前から2番目が自分であり、ズボンを通して象の毛がチクチクと痛かったという稀有な体験を紹介された。
次に津市の空襲で自宅が焼失した話に加えて、空襲警報を聞いたら防空壕へ避難するよう呼び掛ける「空襲警報の歌」を綺麗な声で披露された。また、疎開生活は食べ物と楽しみが乏しかったと話していただいた。動物園の動物までが殺処分された象列車の話と空襲・疎開体験の話を元に、萩原さんは「二度と戦争を起こしてはならない」と繰り返し強調された。 (桑原 記)


大山 妙子さん

8月9日(水) 大山 妙子さん(語り継ぎ手の会)
「叔父・叔母の長崎原爆」

 長崎の原爆体験を語り継ぐ語り手の方のお話。父親を含む父方の兄弟を原爆で亡くしている。縁故疎開で長崎市外に疎開していた叔父や叔母は、配給をもらうために長崎市に来ていたところ被爆した。
 さらに絵本を2冊紹介していただいた。1冊目は『あの日の夏』。8月9日に長崎で起こったことを子どもにもわかりやすい絵本で読み聞かせ。2冊目は『火のトンネル』。銭座小学校6年生の描いた長崎の原爆についてのお話。大山さんの父親や兄弟もこの小学校に通っていた。銭座小学校では1~6年生全員が平和教育を受けており、平和を語り継いでいる。絵本の内容を通じて、戦争の恐ろしさや核兵器の悲惨さをわかりやすく伝えるお話だった。 (岩月 記)


井戸 早苗さん

8月10日(木) 井戸 早苗さん(84歳 語り手の会)
「空襲体験と戦時下の暮らし」

 1939年昭和区円上町で生まれ、小学校1年生で終戦を迎えた井戸さんのお話でした。幼児期の思い出は「恐怖」のひとことと当時を語られたのが印象的でした。よほど怖い体験をされたのでしょう。
 1944年12月13日には7回夜中を中心に空襲があり、東区から逃げて来た早苗さんの叔母さんの髪の毛はチリチリで、それぞれ家族はバラバラになった。自身もいつでも逃げることができるようにモンペを履いて寝ていた。枕元には防空頭巾、鉄かぶと、防毒マスク、リュックサックには三角巾、乾パン、米が入っていた。お母さんからは、米を必ず出すと助けてもらえると言い聞かされていた。灯火管制で真っ暗の中を逃げなくてはならなかった。12月、1月は一人で逃げた。円上中学校には1000人規模の大防空壕があって、早く行かないと入れてもらえなかった。怖かった。 (浅井 記)


澁谷 美子さん

8月11日(金) 澁谷 美子さん(語り継ぎ手の会)
「上野三郎さんの戦場体験を語り継ぐ」

 澁谷さんは以前、職場のデイサービスで出会った男性が戦場で兄を失い、今なお自分だけが生き残ってしまって申し訳ないと思い続けている事実を聞かされ、戦争は残されたものにも深い傷を負わせたことを思い知った。彼のお兄さんと戦場を経験した上野さんが重なり、この語り継ぎをすることにした。
 上野さんの語り動画や上野さん作の水彩画を使った戦場体験の紹介は臨場感にあふれ、特にマニラに向かう扶桑丸の船上の話、船が転覆してボートに乗って九死に一生を得るくだりでは、会場中が引き込まれ、皆が画面を食い入るように見つめていた。最後に『アネモネ戦争』という絵本の紹介があり、一人一人が考え、声をあげていくことができれば平和への大きな力になるだろうというメッセージが込められた。 (佐々木 記)


橋本 勝巳さん

8月12日(土) 橋本 勝巳さん(88歳 語り手の会)
「満州からの引き上げ」

 今回「満蒙開拓」についてお話をしてくださった橋本克己さんは明るく気さくな方である。しかし その少年時代は壮絶極まりなかった。家族で渡った満州国で開拓の夢を抱いていたのもつかの間、終戦とともに敗戦民族がたどる地獄の道が始まったのである。軍人に銃で脅され、伝染病で家族を失い、多くの人々の死を目の当たりにし、それはまさに悲劇そのものであった。しかしそのような状況の中でも、現地の方にご飯をもらったり泊めてもらったりと優しくしていただいたという経験もあり、そうした人たちのおかげで今こうして生きられていると話された。もの忘れが出てきた今でも忘れることはできないこの戦争体験が、「この世から戦争を無くすことが務め」という橋本さんの平和への思いを今日まで作り上げているのである。 (大橋 記)