名古屋空襲から78年、空襲犠牲者追悼の夕べを開催しました。
3月は、戦時下、名古屋市街地への米軍の空襲が最も激しかった月です。ピースあいちでは毎年この時期、いろいろな角度から「名古屋への空襲」を取り上げ企画展を開催し、あわせてピースあいち前庭の平和地蔵前で空襲犠牲者追悼の夕べを行ってきました。
今年の追悼の夕べは、3月11日(土)午後4時から開催しました。第一部ではピースあいち語り継ぎ手による「熱田空襲の語り継ぎ」、その後、ともし火法要を行いました。
「愛知空襲」で投下された2トン爆弾の実物大タペストリーを前にお話する田中玲子さん
第一部の「語り継ぎ」はピースあいち語り継ぎ手の会の田中玲子さん。
「父は15歳の時、三重県津への空襲で母親と妹を亡くしました。でも詳しい事は一切話すことはありませんでした。でも亡くなった後、残された本棚には戦争に関する書籍がたくさん残されていました。父の戦争を調べているうちに、父には話を聞けなかったけど“当時の父と同じ年頃の人の戦争体験を”“身近な場所でおきたこと”を語り継ぎたいと思いました」。と、1945年6月9日の「熱田空襲」での堤茂子さん(当時13歳)が語った時の録画を交えながら、また新任の警察官として救助活動にあたった桜井純さん(当時18歳)の体験絵をもとにお話されました。
堤茂子さんは、中京高等女学校2年生の時、愛知時計電機船方工場に学徒動員されていました。
「6月9日の朝、空襲警報が解除され、ほっとしている時に再び空襲警報。その時、熱田区の愛知時計、船方町・白鳥橋周辺にB52から2トン爆弾が降り注いだ。意識が遠のき、気がついてあたりを見回すと、建物はすべてなくなって、あたり一面に身体がバラバラの死体、手や足。電線にぶら下がった人の体、流れ出るどす黒い液。血まみれになりながら『おっかさーん』と大きく叫び倒れる中学生…」
映像の堤さんのお話からは、その時堤さんが感じた血とどぶ水がまじりあったような強烈な匂いや、死体の中を避難したときの感触などが伝わってくるようでした。
第二部のともし火法要は、平和地蔵さま前にピースあいちのボランティアがペットボトルに平和への願いを書いたともし火を並べ、建昌寺と瑞光寺の僧侶お二人の読経の中、40人ほどが追悼しました。お地蔵様の前にはボランティアが植えたピンクの芝桜がさきはじめ、アンネのバラも芽が出はじめています。