語り手の体験を絵に描く機会をえて
街の絵かきさん まがたきよこ(鎌倉市在住)
このたびはご縁があって、ピースあいちで戦争の語り活動を行う高山孝子さんの体験を絵に描く機会を頂きました。ピースあいちでボランティアをする大学の先輩が、初夏、江の島近くの私宅まで足を運び、ご要望の主旨を伝えてくれました。先輩(旧姓田持さん)とは、大学で1年だけの接点でしたが、平和を願う姿勢は全く変わらず、お二方の想いを絵に表現できたらと引き受けることにしました。
私用で8、9月と海外にいたため、10月初旬に制作を開始しました。課題は6点。「蛍」「空襲」「水遊び」「水やり」「おにぎり」「長屋」と名づけました。まず鉛筆で下書きしたものを撮影し、送った画像を田持さんの方で印刷してもらい、高山さんのご意見をうかがいました。家具や窓の数、庭の野菜の配置や、長屋の前の植え込みなど、一つ一つ具体的な指摘を頂き、修正しました。その中でとりわけ印象的だったのが、次の2点です。
写真 高山さんの語りを聴く筆者(右)
一つ目は、たかこちゃん(ご本人、当時、国民学校3年生)が、2歳下の弟さんの手をぎゅっと握り、防空壕に避難したこと――このことをたびたび話されていると聴き、4人姉弟の長女として、乳飲み子を2人抱えて、夫が出征した留守家族を守る若いお母さんを支える当時の想いが痛いほど伝わりました。
二つ目は、弟さんと友達と川遊びをしていた際に、米軍機が対岸のヤギを狙うように超低空飛行してきた話です。最初、てっきり大きな川と思い、川幅を広く描いたら、実は狭い川で飛行士の顔も見えた、ということ。さらに岡崎市内の川の画像を調べると、小さな流れの川が見つかり、なるほどと描き変えました。たかこちゃんの顔の角度や飛行機の位置を工夫し、操縦士の顔が目に入った瞬間を描きました。承諾を得て絵は完成したものの、内心まだ半信半疑でした。その時の恐怖感から、見たような気持ちになったのでは、という思いが拭えなかったのです。
下描きの承諾を得たら、鉛筆線を消して油性サインペンで上書きです。私は水彩画を描くとき、必ずしも油性サインペンを使わないのですが、あえて今回は絵に登場する人や物の輪郭をはっきりとさせ、かつ単純化し、アニメの絵のようにしてみました。自分自身の体験ではないので、リアルに描くには限りがあったのと、子どもたちが話を聴く入り口として、受け入れやすいかと考えたからです。
絵 おにぎり
アニメの絵のようにといいながら、色塗りは単色でぬりつぶすのではなく、おにぎりを覗き込むお家の内側の壁など何色も色を重ねました。蛍の絵の灯火管制下の暗さも、真っ暗だけど少し青紫が滲むようにして水彩の透明感を失わないようにしました。
たかこちゃんの辛い思い出は私にとってもより責任の重いテーマのため、「水やり」(野菜が育つのを楽しみに弟さんが水やりをする絵)から描き始め、1点ずつ先述のようなやりとりを重ねて仕上げていきました。
絵 空襲
そしてとうとう最後のテーマ、「空襲」の絵と向き合いました。
7月20日深夜、約300人に及ぶ人を殺し、家を街を焼き尽くした岡崎空襲。非戦闘員である子ども・老人・女性を日本中で痛めつけた空襲作戦。8月14日の夜にも行われた空襲。なぜもっと早くポツダム宣言を受け入れなかったのか、それどころか、空襲作戦を考案した軍人に、戦後勲章を与えた日本政府の事も知り愕然としました。
逃げた高台から、焼夷弾の光を見つめるたかこちゃんの絵を一旦仕上げてからハッと、「この絵は美しくしちゃいけない」と気づきました。私の絵では厳禁にしてきた黒のチューブを取り出し、決意をこめて幾重にも塗り重ねました。塗っても塗っても闇の中を逃げた、たかこちゃんの恐怖は表せないと思いました。
ついに6点が完成しました。ホッとする一方、何とも言えない空白感が湧いてきました。たかこちゃんが私の心に住みついていました。高山さんがこの絵を使って語り部をされる日程を知り、同席させていただくことにしました。
実際にお会いした高山さんは、予想通り、心から戦争を憎み平和を願う、人生の大先輩でした。高山さんから、下から二番目の弟さんが栄養不足がもとで病死されたことを聞き、戦争の犠牲は空襲だけじゃないと思い知らされました。ピースあいちの展示内容と運営する方々のご努力にも頭が下がりました。
翌朝、私は岡崎を訪れました。美合小学校のそばに川がありました。小さな小さな川でした。これなら間違いなく兵士の顔が見えたでしょう、子どもたちはどんなに怖かったでしょう。心の中のたかこちゃんと一緒に、私もこのことを語り継いでいこうと思いました。
*4月6日から17日まで、西鎌倉の喫茶レザンジュで「まがたきよこ作品展」を開催します。この作品展のなかで、「たか子ちゃんの お話 子どもの頃 戦争があった」(ピースあいちとコラボ)と題して6点の原画を飾ります。