寄贈品展関連イベント◆「トーク・トーク 遺品と向き合うということ」に参加して
ボランティア 髙橋 よしの
2007年に始まった寄贈品展は、今回は第10回で「つなげていこう平和への願い」というタイトル。1月28日に初めての試みとして「遺品と向き合うということ」というイベント企画を実施しました。
それは、遺品を受け入れ、保存する「ピースあいち」の資料班と、遺品をもとに「17歳で戦死した大叔父の戦争を語り継ぐ」小澤美由紀さん(ピースあいち語り継ぎ手ボランティア)と、日中戦争の研究を行っている広中一成さん(愛知学院大学准教授)の三つの視点から話してもらいました。遺品に向き合う異なる立場の方が出会うことで何が見えてくるのか、楽しみな機会でした。
資料班の安藤さんは、寄贈品が依頼者から持ち込まれると、資料情報カードとIDを作成し登録保存する過程、7月のキックオフ・ミーティングを皮切りにその年の寄贈品展の準備の様子を紹介。
橋爪さんは、今回の367点の展示の寄贈者26名の内訳について説明。「本人2名、子9名、孫2名、兄弟1名、親類4名、知人友人2名、コレクション6名で、本人は88歳と98歳の方。今後本人からの寄贈は少なくなり、子の寄贈が増えるだろう。寄贈するお子さんは親が生きているうちにもっと戦争の話を聞いておけばよかった、せめて遺品でも残したいとピースあいちへ寄贈される方もある。寄贈品はすべて展示しているが、学術的にも貴重なものが埋もれないように、ご覧になった方で、これは貴重なものということが分かればぜひ教えてほしい」と、公開する意味を話しました。
資料班のみなさん
小澤美由紀さんは「17歳で戦死した海軍上等水兵だった大叔父の戦争」と題して話しました。2013年自宅の母屋の建て替えの時に戦争に関する遺品が出てきたので自然に寄贈しようと思ったとのこと。
その遺品は幡豆郡西尾市に7人兄弟の次男として生まれた、明るくひょうきんな等(ひとし)大叔父のもの。1943年大竹海兵隊に志願し、1944年トラック島海戦で戦死。阿賀野巡洋艦に乗り組み、トラック島で魚雷が命中、兵隊の三分の1を失いました。その後駆逐艦追風(おいて)に乗るも、5分後真二つに折れ、海中に。「1944年2月18日小澤等戦死」という記録で大叔父の死を知るだけでした。
厚生労働省の資料を検索したりしました。2021年戸村裕行(水中写真家)さんから、追風の写真を提供してもらい、大叔父は水深60mに600名の戦友といることを知ります。2022年吉村朝之さんの「トラック大空襲」の本に出合い悲惨な事実をさらに知ることになるのでした。
語り継ぎ手になった理由は「未来にこんなことが起こってほしくないから。どうしたらみんなが幸せに生きられるかという願いのために、行動を起こしている」と。
小澤さん(左)、広中さん(右)
その後、小澤さんと一緒に遺品の調査をしている広中さんと対談。
「巡洋艦阿賀野、駆逐艦追風に乗った大叔父さんは戦死。歩兵第18連隊、挺身隊の祖父は生還。」と切り出す広中さんに、小澤さんは「挺身隊って何ですか?」。
「挺身隊は、敵の意表をつくため、前線に行って奇襲攻撃をする部隊です」と広中さん。
「私、祖父の持ち帰ったあるものを持ってきました。これは何でしょう。」と黄色の絹糸でよってある太めの50㎝ほどある丈夫な紐を見せ、「『これはね、じいじのお父さんが80年ほど前に戦争に行ったときに使ったものだよ』と父が、これをクレーンのように持ち上げるのに使って遊ぶ孫に話しているのを聞きました」と小澤さん。
広中さんは「慰霊碑など、今まで目を止めなかったものにもちょっと目を止めてみてください。また遺品が、薄れた記憶を呼び戻してくれることがあります。それが、遺品の持つ力です。」と話しました。
小澤さんがタイトルで示した大叔父さんの写真を、「この方が着ているのは陸軍の制服。大叔父さんは海軍ですから、この写真は大叔父等さんではないですね」と広中さんが指摘。小澤さんはそのことを初めて知ったという。
遺品は寄贈され、公開され、見られる、ことにより正確な事が分かり、伝えられていく。遺品公開の意味が今日この機会に確かなものになりました。
「もの――、幸せな思いになるように残していきたい」と小澤さんが最後に語りました。