50年を迎えた空襲被害者救済運動―民間人差別の裏にあるものは…
全国空襲被害者連絡協議会運営委員  岩崎 建弥






 杉山千佐子さんは77年前の名古屋空襲で左目失明などの大けがを負い、戦後は国に見捨てられた民間空襲被害者の救済運動を立ち上げ、6年前に101歳で亡くなるまで運動の先頭に立ちました。ピースあいちでは追悼展も開かれました。運動はいまも続けられ、今年で50年になります。
 節目に当たり、杉山さんが率いた全国戦災傷害者連絡会の会員だった私はじめ有志は、運動を振り返り杉山さんをしのぶ集会を名古屋のホテルで開きました。空襲のため6歳で左脚を失った大阪の安野輝子さん、7歳で両足を火傷、8月に死去した名古屋の脇田弘義さんの遺族、運動を引き継いだ全国空襲被害者連絡協議会の黒岩哲彦運営委員長、河村たかし名古屋市長、宮原大輔ピースあいち館長ら、被害者や支援者、報道関係者約30人が参加しました。


杉山千佐子さんを語る会(2022年10月23日)

 ドイツやイギリスなど第二次大戦の当事国では、空襲で死傷した国民を元軍関係者、民間人などと区別せず、「同じ戦争の犠牲者だ」と平等に援護しています。しかし日本では「国は民間人とは雇用関係を結んでいなかった。だから民間人を援護する法的責任はない」として、いまだに放置したままです。
 これに対し杉山さんは「国民を守らない国がどこにある? 戦時中は民間人も防空、防火に動員、従わないと罰した。民間人を保護する法律もあった」として、元軍人らの援護法に準じた民間人の援護法案を計14回、野党から国会に提出しました。しかし、いずれも与党自民党の反対で廃案にされました。
 全国空襲連は12年前に結成され、運動に協力する超党派の空襲議員連盟が3年前、民間被害者の救済法案を提出する寸前までいきましたが、ここでも自民党の党内合意が得られず、宙に浮いた状態です。
 集会ではそうした経緯をテレビの映像も交えて振り返り、全員で杉山さんの思い出を語り、追悼しました。河村市長は「東邦高校生徒会に頼まれている『名古屋空襲慰霊の日』を制定、杉山さんの霊に報いたい」と述べました。

 ただ、集会を開いたのには運動50年の区切りということだけでなく、もう一つ目的がありました。それは新たに判明した民間被害者差別の裏にある歴史的事実を報告し、この国の姿と運動の難しさを知ってもらうことです。
 この夏、空襲連は運動を進める手掛かりを求め、旧厚生省時代に戦後処理問題の第一線にいた元官僚に会いました。その人はこう“証言”しました。

 ―政府が民間の空襲被害者に補償や援護をしないのは、そういうことをすると戦争責任が国にあると認めることになり、それは国家元首であった昭和天皇に責任が及ぶことになるから。GHQ(連合国軍総司令部)も了解済みだ。
 軍関係者にも補償はせず、社会保障の枠の中で支援する方針だったが、「戦闘により特別な犠牲を強いられた」という声に政治家が動き、「公務に携わった人々」という新しい使用者概念をつくり出して補償できるようにした。民間の空襲被害者が補償を求めるなら、あの戦争は間違っていたと明確に示す必要がある。政府は戦争責任には触れたくないからだ―

 GHQのマッカーサー総司令官が、日本統治の手段として天皇制を利用したことは知られていますが、天皇の戦争責任回避のために民間の空襲被害者が犠牲にされたとは考えもしませんでした。出席者にはどう伝わっただろうか。
 空襲連内部ではいま、この元官僚の発言と運動のあり方をめぐり、若干の論争が起きています。救済法が成立する見通しは立っていません。