第10回寄贈品展「つなげていこう平和への願い」によせて◆12月6日、オープニングイベントから
ボランティア(資料班) 川越 敏行
12月6日、第10回寄贈品展が始まりました。
当日、11時からオープニングイベントが開かれ、寄贈してくださった4人の方々に、寄贈品にまつわるエピソードなどを話していただきました。今回はその様子をご紹介します。
1.寄贈者 山田吉伸さん
山田吉伸さんの父・山田吉男さん〔1924(大正13)年生れ〕は戦艦の機関兵として、駆逐艦不知火(しらぬい)などに乗艦しました。1944(昭和19)年10月、フィリピンのレイテ沖海戦で負傷し、現地の病院に入院したのち、日本へ帰還しました。寄贈品は父の遺品で、手記「俺の青春は海軍機関兵」などがあります。
山田吉伸さんは、「父は戦争の話しはあまりしませんでした。レイテ沖海戦では、乗艦した船が魚雷を受け、船のボイラーが壊れ、熱水で大やけどを負いました。さらに、弾丸を肩に受け、その後遺症で右手が上がらなくなりましたが、生活の中では不便そうなそぶりを見せませんでした。人と接するのが好きな人で、親睦会などに参加し、旅行計画のまとめ役などをしていました。」などと話されました。
2.寄贈者 水野 晴さん
水野 晴さん〔1933(昭和8)年生れ〕は1944年7月、千種国民学校6年生の時に、集団疎開のため親元を離れ、岐阜県恵那郡付知町にある児童寮で級友たちと過ごすことになりました。寄贈品は、この集団疎開の時に書いた作文や手紙などです。
水野 晴さんには当時の暮らし振りについて話していただきました。
「楽しかったことは級友たちと遊べること。寮のそばにある付知川でよく遊びました。つらかったことは腹が減る、さみしい、しらみで体がかゆいことでした。昼間は楽しく遊んでいても、夜、寝るころになるとあちらこちらで、しくしく泣く声が聞こえます。ある時は一人が泣き出すと、みなが泣いてしまい、しくしくの大合唱。これではいけないと思い、班長たちが集まり寮を脱走する計画を話し合っていました。実際にはしませんでしたけどね。」
水野 晴さんはその後体調を崩し、12月、親元に戻りました。
3.寄贈者 早瀬 毅さん
早瀬 毅さんの父・早瀬清男(きよお)さん〔1915(大正4)年生れ〕は、愛知県明倫中学校(現・明和高等学校)を卒業後、陸軍に入隊し、憲兵として軍務に従事しましたが、1945(昭和20)年5月、フィリピンで戦死されました。寄贈品は父の遺品で、アルバムや陸軍任命書などがあります。
早瀬 毅さんは、「父の死後、伯父の養子となりましたが、私は1944年生れで幼少だったこともあり、父に関することはほとんど聞かされませんでした。成人して、仕事の関係で明和高等学校に行くことがありましたが、学校の名簿に父の名前が載っているのを見た時、何か、めぐり合わせのような、尊いものを感じました。」などと話されました。
4.寄贈者 中西千晶さん
寄贈品は、中西千晶さんの祖母・渡邉知子さん〔1924(大正13)年生れ〕の家を片付けた際に見つかったもので、提灯(ちょうちん)など3点です。提灯は、祖母の兄・渡邉 什(かなえ)さん〔1922(大正11)年生れ〕が出征する際、見送りで使用されたものです。什さんは1944(昭和19)年10月、フィリピンのレイテ沖海戦で戦死されました。
中西千晶さんは、「什さんは、今の私と同じ20代で亡くなりましたが、生きていたらきっといろいろなことをしていただろうと思うと感慨深いです。」と話されました。
寄贈者4人の話からは、「戦争の実際の姿」が伝わってきます。戦争は、人間の心と体に傷を負わせます。戦争は、家族を離れ離れにし、家族を引き裂きます。戦争は、将来のある若者を死に追いやります。この寄贈品展で「戦争の実際の姿」を知り、戦争と平和について考える機会になることを願っています。
展示会場では、コピーをしたものですが、手記などを実際に手に取って読むことができます。ぜひ、寄贈品展にお越しください。