連載⑪「日本国憲法を学びなおす」

小さな島国の宝物~日本国憲法の話をしよう その4

野間 美喜子  (2003) 

                                           
 

過密な日本で戦争して、後に何が残るのか

 自衛隊の任務は、侵略に対して我が国を防衛すること―――専守防衛なんだとずっと言っています。それでどんどん軍備を増強してきた。では、日本において軍事防衛というのがどういう意味を持つかを考えてみましょう。

 私が言うまでもなく、この過密の街が戦場になるということですね。専守防衛だから、攻めて行って向こうで戦うというわけにいかない。しかし、日本のどこに戦争をするところがありますか? 海岸ベルト地帯に人口、産業すべてが集中している。原子力発電所もある。一度戦争が起こってしまったら、日本は後に何も残らないというような国なんです。
 しかも、日本には石油や鉄といった戦争に必要な資源もない。そういう国がどうやって軍事防衛で国が守れるのか。考えればとてもわかる話ですね。

 だからこそ、戦争を避ける工夫、侵略されない工夫が必要なんだというのが憲法の精神なのです。憲法前文にあるように、国際的信頼をつくって、我が国の安全をそれに託そうではないか、というのが憲法の考え方です。
 日本は第二次世界大戦以外は、攻められたことがありません。蒙古も途中で帰ってしまいましたね。国土戦の経験があるとすれば一つ、沖縄戦です。沖縄戦の教訓を、私たちはきちんと見なければなりません。沖縄戦には、国土戦の悲劇と軍事防衛の極限の姿がはっきり見えています。

 まず、軍事力による防衛体制を強めれば強めるほど、相手の攻撃が強まってくるということ。日本は陸軍8万6千、海軍1万を沖縄へ配備しましたが、そこが集中的に攻撃されています。アメリカ軍が上陸してくるというとき、沖縄住民は北へ逃げようか南へ逃げようか非常に苦慮しました。北には日本軍がいない。南にはいる。約30万の島の人たちが、軍隊が守ってくれるだろうと思って南へ逃げた。そうしたら、南は全滅です。軍事力のあるところが攻撃される。軍隊と軍事基地の存在こそが、最も危険なんです。
 もう一つ軍隊で言えるのは、友軍こそがいちばん恐ろしいということです。日本軍は子どもが泣くとアメリカ軍に発見されるからと言って、子どもを殺しました。自分たちが穴に隠れるために、島の人たちを殺しました。そういう事実を、私たちは覚えておかなければなりません。

「ソ連の脅威論」と「戸締り論」

 今見てきたように、日本では国土の中で軍事防衛するということは、ほとんど不可能と考えなければいけない。ところが、軍事力を増強しようとする人たち、自衛隊を認定していこうとする人たちは、いつも何らかの理屈を考え出してきました。

 

 1978年ごろに非常に強く言われたのが、「ソ連の脅威論」です。まるでソ連が明日にでも攻めてくるような話で、北海道の人にお見舞い電話がかかってきたぐらい。そんな勢いで、ソ連の脅威が煽り立てられました。
 今では手品の種明かしができます。実は、その頃からソ連の国力はなくて、いろいろな矛盾が出てきていて、とても日本を攻められるような状況ではなかった。ただ核軍拡だけが進んでいたのです。戦争というのは、そんなに起こるものではないんですね。第二次世界大戦後の戦争は、民族紛争や宗教上の争いや経済的・政治的理由による米ソの代理戦争とか、何らかの紛争要因がある。ソ連の脅威論というのは、まったくもって自衛隊を増強させるための理屈であったというのが、今ならみんなわかります。

 それと前後して出てくるのが「戸締り論」。必ずしも軍隊の役割は戦争をすることだけではない。軍事力を持っているということは、相手に侵略を断念させるための「戸締り」なんだ、という考えでした。「どんな家でも、泥棒が入って来ないように鍵を掛けるでしょう」。そういう理屈です。「鍵ぐらい掛けとかなきゃ。」と。
 そういう論者に聞くんです。「侵略を断念させることのできる軍事力というのは、どういうものですか?」と。答えは、「侵略をしようとすると、耐え難い損害を受けると相手に十分にわかる程度の軍事力だ。」と。これは、長沼ナイキ訴訟(※注)の証人尋問で明らかにされた防衛当局の考え方です。

 

 けれど考えてみると、まわりに強大な核を持っている超大国がいるわけです。ソ連にしてもアメリカにしても、強大な核を有する超大国の軍事力に「耐え難い損害を与える軍備」というのは一体どういうものなのか。日本も核武装をして、米ソを怖がらせる軍事力を持たなければならないのか、という理屈になります。そうすると、先ほどお話しした抑止論と同じことになる。だから、戸締り論というのはほとんど説得力がない。

 

 もう一つ、気を付けなければなりません。「戸締り論」というと、一見、ちょっとした軍備ならば持っていないよりましじゃないか、という程度の話に聞こえます。そこが問題なんですね。よく考えてみますと、鍵は掛けないよりも掛けた方がいいかもしれないけど、軍隊は、ないよりはあった方がましという性質のものではない。
 第一、鍵はそれを買うために、住んでいる人たちの生活を切り詰めなければならないという金額のものではありません。ほんのお小遣い程度で済む。軍備というのは非常に高くつくものです。軍隊の本質を鍵と同じに考えたら大間違いなんです。
 さらに、鍵は中の人たちに悪いことをしませんが、軍事力は国民にとって非常に恐ろしい存在です。軍事力をバックにした権力が、自由、平等、民主主義という国民の権利を抑圧してきたのは、日本の歴史の中ではっきりしています。

 

 軍隊というのは、暴力装置の独占集団です。日本の中で自衛隊だけにものすごい軍事力が集中していることは、そのこと自体が国民にとっては恐ろしい抑圧です。日本は、軍隊に対する警戒心が低いんですけれども。
 私たちは、自分の生活を切り詰めて猛獣を飼っているようなもの。よく食べる猛獣をね。「鍵はあった方がないよりもまし。」という軽い話と、軍隊の本質は全く違う。こういうことをきちんと見ておかなければなりません。

(※注)長沼ナイキ訴訟 自衛隊の合憲性が争われた訴訟。防衛庁は,第三次防衛力整備計画の一環として北海道夕張郡長沼町に航空自衛隊の地対空誘導弾ナイキの基地を建設するために,1968年6月,同町所在の馬追山保安林について保安林指定の解除を申請したところ,農林大臣は,69年7月,この申請を認める処分を行った。これに対して,地元住民らは,違憲な自衛隊の基地建設のために保安林の指定解除処分を行うことは,森林法26条2項が保安林指定解除処分の要件として定めた〈公益上の理由〉を欠き違法であるとして,処分の取消しを求める訴えを提起した。 出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版

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