ボランティア雑感◆ピースあいちで「ボランティア インターシップ」

                                       
 

名古屋市立大学の「ボランティア インターシップinピースあいち」に5人の学生が応募。6月4日から9月17日の間に計10回、ピースあいちでのボランティアに参加しました。
ピースあいちでの授業の目的・目標は、研修を通じて、
① アジア・太平洋戦争の実相(被害・加害・加担・抵抗)を理解し、その記憶と教訓を次世代に継承できる人間になる。
② グローバルな視野を持って地域で活動できる人間になる。
来館者の受付、イベントの会場設営、資料の準備、戦争体験者のお話を聞く、企画展の設営や撤収など、ピースあいちのボランティアが日々行っているさまざまな業務をいっしょに進めていただきました。今回のボランティア雑感は、この研修に参加されたみなさんの感想です。

展覧会場の様子1展覧会場の様子1展覧会場の様子1展覧会場の様子1展覧会場の様子1展覧会場の様子1



伊藤 愛 さん
 先の大戦の影響を受け、平和学習の一環として、戦争に関する事柄やその悲惨さについて私は学んできた。戦争の悲惨さを後世に伝え、戦争が起こらないように努めるという試みは各地で行われている。先ほど触れた平和学習の中でも、その試みの重要性、ひいては私達が次の世代への担い手になることについても伝えられた。しかし、その具体的な手段について論じられることは少なかったように思える。
 しかし、今回のボランティアを通じて、先人達がどのようにしてその記憶、そして平和に対する思いを次の世代に受け継いでいるのかについて触れることができた。そしてその中で、人同士の交流が重要であることも学んだ。
 観覧客の中には、時には、展示資料の記述についてアドバイスを送る人もあれば、展示の記述に誘発され、当時の出来事について追憶している人もいた。また、資料館に展示されている資料品は、その多くが有志による寄贈品であるという。
 このように、ピースあいちという場は、人々の平和に対する動きや願いが集約されている場所であると感じた。ボランティアだけでなく、そこに訪れる人々も巻き込み、彼らとの交流を通じて、戦争の記憶を語り継ぐという目的を達成しようとしているように感じた。
 私自身も些少ながらその交流に参加し、その大切さについて実感することができた。この経験を活かし、今度は私自身がこの思いを後世に伝えるよう動いていきたい。

伊藤 日菜子 さん
 6月から合計10回、ピースあいちでボランティア活動をおこなった。ボランティアに取り組もうと思ったきっかけは、戦争を通じて平和について知りたい、戦争に関して日本では被害に焦点が当てられることが多いが、日本の加害はどういう影響を持っているのかを知りたいと思ったからである。
 そして展示や講演会からだけでなく、ピースあいちを運営する側に立つことから、戦争の記憶を後世に残していくことの意義と、「戦争」という大きな規模の物語を市民や兵士などの「個人」という小さな枠組みで見つめることの大切さを学んだ。
 この活動を通して、私が持っていた平和についての考えが、「平和は大切だ」という漠然とした考えから、「1人でも多くの人の人生が戦争の惨禍から守られるためには平和を目指さなければならない」という考えに変化した。

岩堀 来望 さん
 わたしはインターンシップに参加するまでピースあいちの存在を全く知らなかった。ホームページを見たときは小さな博物館なのだろうと考えていた。だが、ピースあいちを初めて訪れたとき、その展示の情報量や運営スタッフの連携に圧倒された。
 もともと愛知県・名古屋市によって建設される計画があったピースあいちは多くの市民の協力によって設立され、運営されてきたそうだ。展示されているパネルや資料は運営スタッフが情報収集するだけでなく、市民からも提供されている。戦争の歴史を残したい、風化させてはならない、というたくさんの人々の思いが現在のピースあいちを形づくっていることに気づいた。
 また、展示の設営や受付などの業務にボランティアとして携わり、やりがいを感じた。来館された方やスタッフの方々と交流することで、これまでの自分になかった知識や捉え方を身につけ、毎回新たな学びをたくさん得ることができた。ただ資料館を見学するだけではわからないことを、自ら知ろうとすることの大切さを、改めて実感した。インターンシップを通して学んだ知識を周囲の人に伝え、ピースあいちの存在をもっと広めていきたい。そして平和を考える人々の輪を広げたいと思う。

辛 充満 さん
<私の中の戦争>
 歴史の多くの因果関係の中で人間を何よりも「悪」にして互いを憎むようにすることを過去から現在に至るまで、時間の流れの中で見ていくと、私たちは「戦争」という解答を発見することになる。このような戦争の中で国家間の格差が発生し、主従関係が形成され、個人の自由が消失した姿を私たちは直視してきた。それにもかかわらず、世の中において「戦争」は絶えず勃発し、人間の尊厳性を害する行為が行われてきたのは一度や二度ではない。
 ピースあいち博物館は、このような戦争の様子を内面から受け入れ、訪れたすべての方々に戦争とは何かについて答えるとともに、また質問を提示している。博物館2階には、死んだ弟を背にしている一人の子どもの写真一枚が展示されている。背負われた子どもは戦争によって犠牲になったのだろう。だらりとした弟を背に、遠い道を歩いてついに到達した場所は弟を自然に送ることができる臨時火葬場だったはずで、その子どもは周辺の人々が行う通りに弟を火葬させたのだろう。この子は、死について知ることがない状態で社会と環境が導くままに弟を送らなければならなかった。
 現在に至って、私たちはこの子が感じた社会と環境が導くそのままを受け入れるのではなく、本人が自発的に社会を形成し導くことができるリーダーになった。また、個人の自由と尊厳性が保障される社会の構成員としての役割を果たすことができるようになった。そのような私たちの手に再び他人の自由を抑圧する銃が握られることを望まず、またその銃口を写真の子どもに再び向けてはならない。
 私はピースあいちに足を運ぶたびに、戦争が見せてくれた「悪」の恐怖を直視するため、写真の子どもの瞳を眺める。そして望む。その目に秘められた恐怖と残酷な現実が私の目にも映らないことを。私たちがまたこのような愚かなことを始めないことを。

宝蔵寺 麻央 さん
 はじめてピースあいちを訪れたとき、その情報量の多さに驚いた。一日では見切ることができなかった。その後ボランティアの活動中に展示を見ることができたり、語り継ぎを聞いたりしたことで、少しずつ新しいことを学び、それらについて素直に、こうだったのではないかという感想を抱き考えることで、より記憶に残るようになった。
 またボランティア視点では、ピースあいちを訪れた人々が展示を見てそれに素直な反応を見せたり話をしているのを見て、ただ情報を知るだけではなく、実際の焼夷弾や当時の生活のもの、写真、音声資料を見たり聞いたりすることで、自然と自分がその視点に立って考える事ができると気づき、そこにピースあいちの強みを感じた。
 今まで、平和について考えないということは、ある種の平和であると考えていた。しかし、無関心でいるということは、平和が脅かされそうになったときに、それに無抵抗で流されてしまうことになるのではないかと考えるようになった。これは、戦争のことを考える機会がなかった私と、語り継ぎの方の話を聞いたり展示を見たりして感じた私のギャップだと思った。
 それを踏まえて、戦争のことを知り平和を強く意識するのは、今すぐにでもできることだと考えた。