世界中に感銘を与えた禎子ちゃん
ボランティア 野田 隆稔
広島平和記念公園の 「原爆の子の像」の佐々木禎子ちゃんの話は、皆様もよくご存じのことと思います。彼女の短い生涯は世界中に大きな感銘を与えました。
モンゴルでは、この話が歌となり、国民愛唱歌として歌われています。モンゴルからやってきて、名古屋音大で学んだ歌手のオユンナさんが「ヒロシマの少女の折鶴」と題して、日本に紹介しました。シングル盤のCDで出ているから聞いた人もいるでしょう。
季節がいくつも ゆるやかに 少女の窓辺を通り過ぎ
遠いあの日の 哀しみを 小さく 揺らしていた
百万羽の折鶴 色とりどりのやさしさに
埋もれてあの子の瞳は 何を見つめていたのだろう
毎日毎日 折鶴を かぼそい指で 折りながら
自分の小さな命を 見つめつづけていた
百万羽の折鶴 かぞえきれないやさしさに
つつまれながらあの子は 何を信じていたのだろう
百万羽の折鶴 世界中のやさしさを
小さな体で受けとめて あの子は天使に生まれ変わる
心につもった哀しみが いつしか風に変わって
心の窓をゆるやかに やさしく吹いて行った
百万羽の折鶴 みじかい命が燃えつきて
ほほ笑みを浮かべてあの子が ひとりで天に召された日に
百万羽の折鶴 空いちめんに舞いあがり
あの子の魂追うように 大空高く飛んで行った (訳 藤公之介)
オユンナさんは、モンゴルではこの歌を通して、佐々木禎子ちゃんのことを多くの人が知っているといっています。日本と精神的にも、政治的・経済的にも遠い国モンゴルの国民に、禎子ちゃんの短い人生がいかに感動を与えたかがわかります。
モンゴルの人たちがどのようにして禎子ちゃんのことを知ったかはわかりませんが、私たちが『アンネの日記』やアンネを描いた映画や劇でアンネ・フランクの悲劇のことを知っているように、世界中の多くの人々がSADAKOのことを知っています。
ロベルト・ユンクというユダヤ系オーストリア人が広島で見聞したことをもとに『廃墟の光』という原爆の悲惨さを書いた本を出版しました。その中に、禎子ちゃんのことが書
かれており、それによってヨーロッパに知られるようになりました。しかし、ユンクの本は原爆全体に焦点を当てているので、禎子ちゃんのことが中心ではありませんでした。
ユンクの本を読み、禎子ちゃんの話に感銘を受けたオーストリアの作家カール・ブルックナーは小説『サダコは生きたい』を書きました。子どもにも読める本で、これで一躍、禎子ちゃんはSADAKOとして欧米に知られることになりました。
スペインのバルセロナにはSADAKO学園という学校があります。1968年に創立された学校ですが、この学校では『サダコは生きたい』を読んで、お互いが意見を言い合うという授業をし、SADAKOの生き方を通して、平和を学ぼうとしています。
1999年、クロアチアの難民収容所の子どもたちから広島市に鶴を描いた手紙が届きました。「原爆の子の像」に飾ってほしいという内容でした。ボスニア内戦で難民になり、クロアチアの収容所で暮らしている子どもたちが『サダコは生きたい』を読んで感動して、折紙ができないので、鶴の絵を描いて送ってきたのでした。彼らは難民という辛い立場にいながら、SADAKOに勇気づけられたと言います。
「戦争をやめさせるために、原爆投下は正当である」と考えているアメリカでは、原爆の被害の実態を描いた書物はあまり売れませんでした。
カナダ人の女性作家エレノア・コアは広島を訪れ、「ヒロシマ」を見ることで、原爆の恐ろしさを知りました。彼女は「原爆の子の像」を見て、言い知れぬ感動を覚え、禎子ちゃんの事を『サダコと千羽鶴』という小説にしました。
最初はあまり反響がなく本はほとんど売れませんでした。1980年代に反核運動が高まるとともに、本も売れ出し、SADAKOのことがアメリカにも知られるようになりました。
1994年、最初の原爆がつくられたニューメキシコ州のロスアラモスの町に、「原爆の子の像」の姉妹像を建ようという話が子どもたちの間から起きました。これは『サダコと千羽鶴』を読んだ子どもたちが佐々木禎子ちゃんの話に感動し、「子ども平和像委員会」をつくり、像の建立を呼び掛け、署名と募金を集め、建立場所まで決めました。
これに対して、多くの大人たちは原爆発祥の地ロスアラモスにはふさわしくないモニュメントだと反対しました。しかし、子どもたちは「核兵器はもういらない、子どもは平和が欲しい」と大人に訴え、ついに碑の建立を認めさせました。
いい話です。禎子ちゃんの人生に世界の少年・少女が敏感に反応しています。