企画展「戦時下の地震~隠された東南海・三河地震」見学記
神奈川県立横浜翠嵐高等学校 矢野 慎一
2022年5月4日、標記の企画展を見学しました。その中で特に印象に残ったことを、いくつかご紹介したいと思います。
まず、1940年代は地震の多発時期で、死者が千人を超える地震が鳥取(43年)、東南海(44年)、三河(45年)、南海(46年)、福井(48年)と立て続けに起こりました。
ところが、東海地方の二つの地震は戦時中だったため、地震の被害や状況が国民に知らされることはありませんでした。それは、被害が国民の戦意を低下させると判断されたからです。そのため、被災者の救援活動は後回しになり、また軍需工場では被害を記録する写真すら残されていません。
被害を繰り返さないためには、その検証と記録は必要ですが、こうした戦争優先という国家の姿勢は、その後に続く空襲と全く同じです。しかし、巨大地震の情報は外国ではすぐに把握されていて、日本国民だけが知らなかったのです。
会場を見学する筆者
次に東南海地震の際、愛知県半田では多くの家屋が倒壊しましたが、人的被害はほとんどなかったそうです。ところが同じ市内の軍需工場では、動員学徒を含む多数の死傷者が出ています。その原因について、航空機の機体や翼を製造するための広いスペースが必要だったため、建物の柱を取り除いていたということが指摘されています。つまり、建物の耐震力が弱められていたのです。
ところが近年、当時の工場関係者がそのような事実はなかったと主張しているそうです。そのことについては改めて客観的な検証が必要だと思いますが、そのほかにもいくつか要因があったと思われます。
かつての日本の工業生産は、機械化よりも労働力を集中的に投入することで生産性をあげようとしました。そのため、工場内では多数の労働者が働いており、さらに軍事機密保護のために建物の開口部が塞がれていたことが、避難の遅れにつながり多くの犠牲者を出したと考えられます。「戦争だから仕方ない」「天災だから仕方ない」では何も教訓が残らず、またいつか同じ事を繰り返してしまいます。
これに対して三河地震で疎開中の教え子を失った国民学校校長は、被害の事実を忘れないため、ご自身が亡くなるまで犠牲者の冥福を祈り続けていたそうです。
工場の管理者も校長も両方とも国家権力の末端に位置し、国民を支配する側の人びとでしたが、天災を理由にして自己の責任を否定する姿には怒りすら覚えます。もちろんそこから、国家の人命軽視の思想も浮かび上がってくるのです。
それから、米軍撮影空中写真から地震の被害状況が明らかにされました。展示されていた空中写真には、三重県尾鷲の津波被害と愛知県半田の液状化による噴砂の痕跡が鮮明に写っています。半田の軍需工場の地盤が埋立地で、軟弱だったこともこの写真から証明されました。空襲記録運動ではよく知られている米軍の空中写真が、このような形で有効に活用されていることに驚かされました。まさに画期的だと思います。
そのほか、各地の行政機関に保存されていた被災写真と、体験者の証言や体験画、地震慰霊碑の写真や分布図が展示されています。ピースあいちがこれまで取り組んできた、調査と研究を重視する姿勢がこれらの展示に現れていると感じました。
さて現在ウクライナでの戦争をめぐり、歴史上はじめてインターネットを駆使した情報戦が行われています。ネット上に多くの情報が溢れているわりには、現実にウクライナでどのような戦闘が行われているのかが見えてきません。それは、双方とも自らに都合の良い情報だけを発信し、不都合な情報を隠しているからだと思われます。私たちは、国家は国民を騙すものだということを70数年前のあの戦争の惨禍から学んでいます。そして、今回の企画展からも改めて国家の姿勢を学ぶことができました。国民を騙す国家を監視し続け、戦争を起こさせないことが私たちの使命であることを痛感した一日でした。
なお、高等学校では今年の4月から、「歴史総合」という新しい科目の授業が始まっています。「歴史総合」は子どもたちが様々な資料をもとに、自ら「なぜだろう?」と考えながら歴史を学ぶ科目です。そういう点で、ピースあいちには今回紹介したような多様な資料があります。子どもたちに是非見学してもらいたいと同時に、先生方もピースあいちの資料を基に、「歴史総合」の授業づくりに取り組んでいただきたいと思います。
最後になりますが、展示解説をしてくださった金子力さんと、ピースあいちの皆さまに心より御礼申し上げます。