連載⑤「日本国憲法を学びなおす」
歴史の流れを止めていいのか(2018年)
(野間美喜子遺稿集『向日葵は永遠に』より)
2018年が明けました。
今年は、憲法九条の改悪が政治日程に上ってきています。2018年は、平和博物館にとってもこの憲法問題が大きなテーマになることは必至だと思います。
憲法が制定されて間もない時期から憲法の核心である九条を目の敵にして、なんとかこれをなくしたいと画策してきた勢力がありましたが、平和を願う多くの市民の不断の努力によって、憲法九条は辛くも保持されてきました。それを支えてきたのは、あの戦争の体験であり、それを忘れまいとし、それを遺すために地道な活動を続けてきた多くの市民の力であったと思います。私たち権力なき市民は、今こそ一丸となってこの平和の砦を守り抜かなければなりません。
憲法九条の改変のうごき
「憲法九条第一項、第二項はそのまま残し、第三項に自衛隊を位置づける」という、奇策ともいうべき憲法改悪案(以下三項加憲といいます)が、昨年(注:2017年)、こともあろうに憲法擁護義務を負う行政府の長たる内閣総理大臣(注:2017年当時の安倍晋三首相)の口から出ました。「自衛隊は今や、国民に認知されている。だから憲法にそれを書き込んでも実態は何も変わらない」という、「偽計」とも言うべき説明がなされています。
歴史の流れを止めていいのか
この改悪については、いろいろな角度から論じなければなりませんが、まず本質論から考え始めたいと思います。憲法九条は、1945年に終わったあの戦争の悲惨な体験から、「軍事力で平和は守れない」ことを世界中が認識し、「武力による平和」という考え方(武装平和論)から脱して、「武力によらない平和」をめざすという大きな歴史の流れを宣言したものでした。それは日本ばかりではなく、核兵器という人類全体を破滅に導く兵器の脅威を目の当たりにして、ようやく人類が到達した歴史の方向を指し示したものでもあったのです。
今、あの戦争の敗戦国であった日本がどのような形であれ、九条に自衛隊を位置づけることは、この「武力によらない平和」という歴史的な宣言を降ろしてしまうことになります。あの戦争で命を絶たれた6000万の人たちのこと、今生きている若者たち、これから生まれてくる新たな命を考えるとき、「武力によらない平和」をめざす歴史的な流れをここで断ち切るようなことを私たちは絶対に許すわけにはいきません。
自衛隊の実態は大きく変わる
各論として第一に明確にしなければならないことは、今回の三項加憲で憲法に位置づけられようとしている自衛隊は、長い時間の中で国民の多くが認知するに至った自衛隊とは別物であることです。長い間、政権は自衛隊を「合憲」とするために、自衛隊を肥大化させることができずに、「専守防衛」「必要最小限度」などという限定をつけてきました。そこで国民がイメージし認知してきた自衛隊は、専守防衛という枠の中で抑制されてきた軽装備の自衛隊、災害時に活躍してくれる自衛隊でした。
しかし、2014年7月の閣議決定とその後に制定された安保法制によって、自衛隊は、それまで国民が認知してきた自衛隊とは本質的に別物になってしまいました。それまで国民が認知してきた自衛隊は、戦闘行為は行わない自衛隊、海外では井戸を掘ったり、難民の環境整備をしたり、国の内外で災害時に活躍してくれる自衛隊でした。しかし、2015年に生まれ変わった自衛隊は、集団的自衛権の行使ができる、すなわち海外に派兵されて地球の裏側までも進駐し、戦闘にも加われる、実質的な軍隊になってしまっているのです。これを憲法上の存在にすることは、まさに日本が自衛隊という名の「軍隊」を持つことに他なりません。
集団的自衛権をもつ自衛隊が憲法上のものになるのですから、それを許せば、2015年に安保法制が成立するときの反対論はもう主張することさえ困難になります。さらに、もっと明確にフルスペックの集団的自衛権行使ができるような文言を自衛隊の目的として明記する改憲案が出てくる可能性もあります。「国民に認知されている自衛隊を憲法に書き込んでも実態は何も変わりません」という説明の嘘を、国民は見抜かなければなりません。本当に何も変わらないのなら、そもそも憲法改正は不要です。
二項を空文化して矛盾を解消する
本来、前文の非武装平和主義とこれを受けた九条二項の「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」「国の交戦権は、これを認めない」という条項と、実質が軍隊である自衛隊とが憲法上で併存することはあり得ないことであり、仮に併存すれば、さまざまな矛盾が生じるはずです。しかし、矛盾することを矛盾しないと強弁するのは、これまで歴代政権が常套的にやってきた手法である上に、この矛盾の解消には、巧妙な法理論が利用されます。
加憲方式の憲法改正手続きが取られた場合、前規定と新規定は憲法上同位の関係に立つので、相互に矛盾することが明白なときは、後から規定されたものが前に規定された部分を排斥して優先されるという法理論(後法優先の原則)が利用されるおそれがあるのです。
「何も変わらない」と説明して真っ向矛盾する条項を突っ込み、矛盾するなら後法が優勢するという法理論を持ち出すのはあまりにも乱暴過ぎるのですが、これを持ち出せば、第二項は「空文化」「死文化」させられ、やがて「誤解のもと」「論争のもと」として削除される運命になるでしょう。この「九条の二段階改正」が目論まれています。
基本的人権が制約され、社会が変わる
さらに思いを致さねばならないのは、自衛隊が憲法上の存在になることによる社会の変質・変容です。自衛隊を憲法上に位置づけることは、自衛隊に「憲法的な公共性」を与えることに他なりません。憲法の掲げる公共性は高度の公共性ですから、自衛隊を強く立派に保持することは、日本国に優先的な政治的課題になります。
そのためには、従来の抑制的な軍備の歯止めは一切捨てられ、ICBM(大陸間弾道ミサイル)、長距離戦略爆撃機など際限のない戦力の強化が図られるでしょう。ひいては核兵器さえ保有可能になっていくのではないかと危惧されます。軍事費は飛躍的に増大し、GDPの1%という政策的な大枠は外されてしまうでしょう。相対的に社会福祉は切り捨てられていきます。兵器の生産が強化され、日本でも産学複合体や軍産学共同体の形成が本格化するでしょう。
「軍事力で戦争に備える」ことが憲法上の要請となれば、当然のことながら、国民の基本的人権と衝突し、人権が制約されていきます。軍事機密の保護が優先され、情報公開は制限され、言論活動は委縮していきます。現行の土地収用法ではできないとされてきた、自衛隊の基地建設のための強制的な土地収用も可能になるでしょう。戦争に備えるという名目で、国民の自由や財産や精神までも「動員」されていく社会の到来が危惧されます。
徴兵制は、政府の公権的な解釈でも、憲法13条(人格権)、18条(苦役からの自由)の趣旨からは許容されないものとされてきましたが、自衛隊が憲法的な公共性を持つようになれば、それを保持することが国民的な責務となり、やがて国防義務や徴兵制へと繋がっていくことが考えられます。
そして、憲法的な公共性を付与され、強く立派になった自衛隊は、表舞台に堂々たる姿を現すでしょう。国民の前で銃を持って大演習を行って畏怖を与え、他方で、記念日には公道で見事なパレードを行い、かっこいい制服姿の隊員たちが街を闊歩して若者たちを羨望させます。自衛隊は、国民にとって畏怖と羨望の的になるでしょう。国民がすべて平等だった時代は終わり、軍人階級は特権化していくに違いありません。現在、医学部に殺到している優秀な若者たちにとって、高い地位の軍人になることが新しいエリートコースになるでしょう。そして優秀な彼らがさらに軍事優先の社会を牽引し、日本は軍事力による強い国家づくりがどんどん進んでいくでしょう。
これを書きながら、私は、これが「新年の悪い初夢」であってほしいと願っています。
私たちは、あの戦争から70年余、軍隊のない社会で暮らしてきましたが、それがどれほどありがたいことであったかに今一度思いを致し、軍事力や軍隊が力を持つ社会の到来を何としても防ぎたいと思います。