連載①「日本国憲法を学びなおす」
平和憲法と共に生きて(2015年)(野間美喜子遺稿集『向日葵は永遠に』より)
あのとき、憲法は輝いていた
私が初めて憲法に出会ったのは、小学校一年生のときでした。1939(昭和14)年生まれの私は、東京で戦災を受け、疎開先の三重県亀山で終戦を迎えました。翌年、三重大学の付属小学校に入りました。
憲法が公布された1946年の秋頃だったでしょうか。先生が教室で新しい憲法のことを話し、読んでくれました。十分には理解できなかったと思いますが、先生が読んでくれた憲法前文はとても美しい響きで、生まれて初めて出会った最高に美しい言葉のように思われました。先生は、「この憲法さえあれば、日本は、もうあのおそろしい戦争に二度と遭うことはないのだよ」と言われたことを覚えています。先生の感動が伝わったのか、特に第二段の平和主義の宣言のところ、「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」という文章は、とても素晴らしいものとして、私の中に残りました。
憲法が公布された日だったと思いますが、お祝いの旗行列をしました。大勢の人が歌を歌いながら町中を歩きました。旗は日の丸ではなく、粗末な紙に「祝憲法発布」と印刷された小旗でした、国民は、長い戦争が終わって、平和を国是とした新しい憲法ができたことを心から喜び、祝ったのだと思います。
憲法の掲げる平和と自由と民主主義は国民の心の灯り、希望の象徴になりました。
平和憲法第一期生だった小学生の私たちは、物質的には乏しくても自由と民主主義だけはたっぷりあった、あの戦後の短い一時期の希望に満ちた教育を浴びるように受けて育った世代です。子どもたちは、まだその意味を十分理解していなくても、「自由」とか「民主主義」とか、「戦争放棄」などの言葉を事あるごとに、ふんだんに口にしました。
憲法が蹂躙されていく
ところがその後、朝鮮戦争を境にアメリカの占領政策は変わり、軍備を持たない国家である日本に警察予備隊が創設され、保安隊になり、自衛隊になりました。
そして、大学三年の時、あの60年安保闘争がありました。このように愛する憲法に暗い影がさし始めた時代に、私は青春時代を過ごし、弁護士になりました。弁護士を一生の仕事に選んだのも、やはり憲法の理念に魅せられた子ども時代の感動の延長線上にあったと思います。
国民は憲法を大切にしてきた
その後、憲法は政権政党による執拗で巧妙な改憲攻勢にさらされ続けました。権力とお金を持った人たちが、「悲願」とか言って、明けても暮れても、憲法を変えようと画策するという、他国に例のない異常な歳月が続いてきました。しかし、それでも日本国民は70年間、憲法改正を許しませんでした。それは、まさに日本国民が、この憲法を心から愛してやまなかったからです。
明治維新以来、十数年ごとに戦争を繰り返してきた日本が、この70年間、一度も戦争をせず、若者を戦場に送り出すことがなかったという事実は、大きなことであり、誇らしいことであり、素晴らしいことでした。第二次世界大戦後も地上に戦火が絶えなかった世界情勢を考えると、日本がそのような立ち位置を維持できたのは、ひとえに平和憲法の力であり、それを支えてきた国民の力であったと思います。
憲法の条文を力に、各論の闘いを
「2014年7月の閣議決定*)で憲法の平和主義は骨抜きにされた」と言う人がいますが、それは違うと思います。政権政党が閣議決定で憲法を変えることはそもそも出来ないことなのです。「閣議決定」は無効で、憲法はもとのまま生きています。
しかし、相手は権力者ですから、今後さまざまな局面で、閣議決定をもとにした法律の改定や実態の変更が出てくるでしょう。その時は、閣議決定にとらわれず、私たちは、必ず憲法の条文に立ち返って、その違憲性を主張し、個別的に各論ごとに、徹底的に闘っていくことが必要だと思います。これから、今までにも増して、多くの厳しい局面が私たちを待っていると思いますが、そのときこそ、これまで培ってきた護憲の力を結集し、個々の闘いを強化していくことが重要です。
結びに
私は今、名東区にある戦争と平和の資料館「ピースあいち」の館長をしています。先の戦争のことを知る人は少なくなりました。しかし、あの戦争は、多くの犠牲の上に残された20世紀の負の遺産であり、戦争の記憶を次世代に伝えることは20世紀に生きた人間の責務だと考えています。政権政党が平和憲法を変えることを「悲願」としている日本が、再び戦争をする国にならないためには、あの戦争の記憶は残された最後の歯止めになるのではないかと考えるからです。
共にがんばりたいと思います。
*編集部)2014年7月1日、政府は臨時閣議を開き、憲法9条の解釈を変更して集団的自衛権の行使を容認すると決めた。閣議決定文の名称は「国の存立を全うし、国民を守るための切れ目のない安全保障法制の整備について」。集団的自衛権は自国が攻撃を受けていなくても、他国同士の戦争に参加し、一方の国を防衛する権利。政府は1981年、集団的自衛権の行使は「必要最小限度の範囲を超えるもので、憲法上許されない」との政府答弁書を閣議決定し、以来、この解釈が定着していたが、安全保障環境の変化を理由に容認するとした。