ヒロシマで考えたピースあいちのこと
運営委員  平岩 潤

                                           
 

 緊急事態宣言の明けた10月半ば、妻と広島へ行ってきました。次女が、今春広島で就職したので、様子を見に行こうと考えていたのがこの時期になりました。
 ところが、彼女のワクチン接種と重なってしまい、接触は最小限に。でも、その分、行きたかった場所へ足を運ぶことができました。

展覧会場の様子1

岡本忠さん

1、Social Book Cafe ハチドリ舎
 原爆ドームや平和記念公園に程近いこのカフェは、テレビ番組等で紹介されていて、いつかぜひ、と思っていました。この日は、16日。「毎月6のつく日は、語り部さんとお話を」という催しに参加しました。 https://hachidorisha.com
 お目にかかった岡本忠さんは、1歳で被爆し、広島市認定の「被爆体験伝承者」、いわゆる語り継ぎ手として活動されています。ですが、この日はご自身についてのお話でした。

・爆心地から1.5キロの自宅は丸焼けに。父が不在で、母と二人、数日かけて数十キロ離れた親戚の家まで逃げ延びた、と後に聞いた。
・戦後は厳しい生活が続いた。被爆時の腕の傷が、心の傷となり、若い頃は半袖を着られなかった。
・年齢を重ねた後、2度、体調を大きく崩した。原因がわからず、とても不安になった。
・自分は被爆者手帳を持っているが、差別を恐れ、申請しない人も多い。自分も結婚する時、被爆の事実を打ち明けるかどうか悩んだ。


展覧会場の様子1展覧会場の様子2

(左)ハチドリ舎の中の様子 (右)ハチドリ舎のイベント風景(当日のものではありません)

 お話を聞いて、被爆という現実の奥深さ、広がりの大きさを改めて感じました。岡本さんが強調されていたのは、「昔話ではないこと」でした。今も苦しんでいる被爆者は多く、また世界の核兵器は廃絶に至っていないことを忘れてはいけない、と。
 私たち夫婦ともう一人の聞き手が、お茶を飲み、質問をしながらの時間でした。ピースあいちでも、語りや語り継ぎを開いていますが、講演という形式だけでなく、もっと気さくに、やりとりを交えて、という形も良いのでは、と思いました。
 また、岡本さんはじめ、広島の語り部は、招く側の負担なしで、全国各地へ出向いて頂けるそうです。ピースあいちへお招きし、こちらの語り手・ボランティア、来館者の方と触れ合えると、貴重な体験になるのではないか、と感じました。

2、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館
 近くにある平和記念資料館に比べると、あまり知られていないように思います。しかし、とても大切な施設だと感じました。 https://www.hiro-tsuitokinenkan.go.jp


展覧会場の様子1展覧会場の様子2

(左)国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 平和祈念・死没者追悼空間 (右)国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 体験記閲覧室

 地下にある「平和祈念・死没者追悼空間」は、静寂が支配し、360度の写真や中央のモニュメントが、失われたものへ向き合うことを促します。空間の持つ力が、計り知れない何かを訴えて来るのです。
 さらに、被爆者一人一人を尊重していることも、印象的でした。
 館内のモニターには、寄せられた死没者全員の名前と遺影が、映し出されています。また、「体験記閲覧室」では多数の体験記や証言映像が見られます。
 実際に触れてみて、大変優れたアーカイブと感じました。映像だけでなく、全文の書き起こしも同時に表示され、関連の地図や資料とも紐づけられています。検索は、氏名や住所だけでなく、職業や所属(会社名や学校名)、さらに「捜索」「救援・復旧」「障害」など、さまざまなテーマやキーワードで可能です。

展覧会場の様子1

同館の外観

 木下冨枝さん、仲直敏さん(長崎)はじめ、ピースあいちにゆかりの方の体験記も読むことができました。
 ※一部はネットでも閲覧可能です。 https://www.global-peace.go.jp/index.php
 ピースあいちでも、戦争体験者の語り映像のアーカイブ化を進めています。語っていただいたお一人お一人の想いに応えるためにも良いものを作らなければ、という思いを新たにしました。

3、おわりに
 このほか、呉市にも足を伸ばし、大和ミュージアム(呉市海事歴史科学館)なども訪れましたが、紙数が尽きました。
 やはり他の場所に立つと、それぞれが興味深く、ピースあいちに関わる上での新たな考えや思いが生まれてきます。今後もこういう機会を持ち続けていきたいと、強く思いました。