堤茂子さんの熱田空襲の体験◆13歳の少女が見た生き地獄

                                           
 
展覧会場の様子1

体験を語る堤茂子さん

 

【お話の概要】
 堤茂子と申します。昭和7年3月23日生まれです。あと半年で満90歳になります。昭和20年8月15日の終戦の時は、私は女学校の2年生でした。
 「勤労学徒報国隊」と大きく書かれた腕章と日の丸の鉢巻き姿で、昭和19年、1年生の2学期から船方(熱田区)にある愛知時計電機水雷兵器部第4工場で、水雷の部品製造に携わることになり、何があっても「お国のために」、「欲しがりません。勝つまでは」と、本当に一生懸命でした。

 

 昭和20年6月9日、早朝の空襲警報が解除となり、避難先から職場に戻ったばかりなのに飛行機の音が・・・。「オーイ!B29が飛んでるぞ!」という叫び声。警報より爆弾投下の方が早かったでしょうか、すぐにザツ ザザーという大雨のような音。立っていられない揺れと爆発音。あたりは砂埃で何も見えない。あちこちから「北へ逃げろ!」という声が聞こえますが、どっちが北なのか、薄暗い中でオロオロするばかり。
 いつも指示されて行動するのに、この日はどこからも指示がなく、砂煙で先は見えない。工員たちは我先にと工場から逃げ出していきました。私は、携帯していた防空頭巾をかぶることもできず、集団の後ろからヨチヨチ歩きながらやっと白鳥橋につきました。 

 足が痛んでもう歩けないので、一緒に逃げた二人の友達には先に行ってもらい、その場に座り込んでしまいました。いつも避難する壕はもう満員で入れてもらえず、少し凹んだ場所を見つけ、そこに膝をかかえて座り込んだ時です。
 ものすごい爆音とともに爆弾が投下され、堤防が崩れてしまい、しばらくは自分がどうしていたかわかりません。やがて静かになり、衣服が水で冷たくなったのに気づき、顔を上げてこわごわ周りを見た時、目に入ったのは、血と泥でベタベタになり、爆風でビリビリに破れた衣服を身に着けた死体の山でした。爆風で飛ばされたり、堀の水で押し流されたり、壕が爆破されて手、足、胴などがちぎれてしまっている姿・・・。怖くなってただ茫然としていた時、死体の山から血の尾を引きながら人の頭が転がり落ちてきて、私の前で止まったのです。
 死体の山を逃げる人、力尽きて倒れる人。目の前を左腕がない中学生らしい男性が血を流しながら通り過ぎていきましたが、最期の声をふりしぼり「おっかさーん」と叫びながら倒れました。血と泥でぬるぬるの地面にしゃがみこんだままの人たち。みんな無言で、ただその場にいるだけといった状態でした。

 

 どっちを見ても死体ばかり。踏み越えていかなければ。私は、「ごめんね」と手を合わせて通ってゆきました。前方を見上げると、爆風で吹き飛ばされた人たちの頭、手、足、胴などが宙を舞い、電線や木の枝などに引っ掛かり、そこから雨のように血がぽたぽたと落ちていました。まさに血の雨が降っている状態でした。少し北へ進むと、尾頭橋の下の川原に白鳥橋で別れた友達がいます。私は足の痛さも忘れて走り、「宮崎さん!」と大声で叫んで抱きついたまま、出るのは涙だけでした。

 警報が解除になり、それぞれ職場の方に向かっていきましたが、血と泥でベトベトの服装になった人たちはどうすることもできず、ぼんやりとしていました。その時、橋の近くの家の人たちが、「みんなその姿では外も歩けん。こっちへ来て」と言ってくださったのです。井戸のまわりに物干し竿を立てて大きな布で囲い、外から見えないように気配りをしてもらい、その中で私たちは顔や手足を洗い、汚れた衣類を脱ぎ、ご近所の人たちが持ち寄ってくださった衣服をお借りしてさっぱりとしました。
 市電も止まっていたので、尾頭橋から柳橋、明道町、市役所から東片端まで市電の線路に沿って1時間半くらいかけて家まで歩いて帰りつきました。歩いて帰ることには慣れているので寂しくはなかったけれど、この日は悲しさでいっぱいで涙を流しながら歩きました。
 家に帰ると、母は私を強く抱きしめ、「茂子が無事でよかった!」と何度も言って泣きました。

 

 お借りした衣服はすぐ洗って乾かし、母からお礼の言葉も教わり、翌日、工場へ行く前にお返しに行きました。
 白鳥橋は大きな穴があき、工場は鉄骨だけが残り、朝礼や休憩時間に友達同士話したり歌ったりした中庭も中央あたりに大きな穴があいて泥水のプールのようで、死体がプカプカ浮いていました。
 やっと先生を見つけ、生きていたことを報告すると、さっそく後片付けの手伝い。桶をひもでぶら下げた入れ物に、骨のかけらでも、肉片でも、人間のものと思えるものを拾い集める仕事でした。3日程同じ作業をした後、2日休みがあり、愛知時計に行くのもこれが最後という日、正門を入った左側の塀の内側にはたくさんの木棺が積み上げられていました。板の隙間からは蛆(うじ)がはい出し、もこもこと動いていました。手を合わせ、一日も早くご家族の元にお帰りになれますようにとお祈りをしました。
 仲良しだったお友達の、日の丸の鉢巻きも、毛髪もあるのに、顔面だけが爆弾の破片でえぐられてしまった姿は、今でも瞼から離れません。