◆少女たちの戦争展に寄せて
NPO平和のための戦争メモリアルセンター理事  西形 久司

                                           
 

 戦争の時代をくぐり抜けた人たちには、私たちにはない何かがある。気迫というのだろうか、志操堅固というべきか。心身ともに鍛え方が根っこから違っている。戦争へのこだわりにもそれは余すところなく表れている。

 戦時下勤労動員少女の会の代表の坂口郁さんと事務局の中村道子さんにお会いしたのは、1998年3月15日、横浜で開かれた学徒勤労動員全国研究者交流会でのことであった。「少女の会というと勘違いする人もいるけれど、私たちは戦時下の少女なのよ」とおっしゃっていた。気持ちの上では女学生そのままという人たちであった。  少女の会では活動の成果を『記録 少女たちの勤労動員』にまとめていた(1996年BOC出版、後に2013年西田書店から改訂版発行)。全国から集めた学校史や体験記などに基づいて書かれており、この書物自体が貴重な記録である。今回のピースあいちの展示でも、少なからずその成果を参考にさせていただいている。

展覧会場の様子1

 

 今回の企画展のサブタイトルは「青春のすべてが戦争だった」であり、序文ともいうべき「開催にあたって」によれば、1931年の満州事変の頃に生まれた世代は、人生の歩みが戦争の15年間に一致しているという。私事で恐縮であるが、実は私の父は1931年の生まれである。戦争とともに生まれ育った父は、終戦を迎えた時のいちばんの衝撃は「戦争に終わりがある」ことだったという。「終戦の発見」である。「青春のすべてが戦争」というフレーズにはそのような重みがある。
 「青春のすべてが戦争」というサブタイトルには、もう一つ別の意味が込められているように思う。たとえば、少女たちの戦争をテーマに1本の映画を制作したとする。クライマックスは戦争末期の空襲であり、とりわけ動員先の軍需工場での凄惨な体験に焦点が絞り込まれていく。それはそれで正しいことなのであるが、大切なのは、最後の破局に至るまでに一人ひとりの暮らしがあり、学生としての日常があったということである。それらの暮らしや日常の一コマひとコマが、戦争と分かち難く結びついていたのである。
 言葉にすれば当たり前であるが、意外と私たちは忘れているように思う。映画制作の例でいえば、破局に至る長い道のりが丁寧に描かれていればいるほど、クライマックスは深く広い感動を呼ぶ。

展覧会場の様子1

 

 戦争の展示であるから、東南海地震や熱田空襲、豊川海軍工廠の空襲にウェイトが置かれるのは当然のことである。ただし今回の企画展の最大の特徴は、戦時下の少女の暮らしや、戦時色が深まるとともに起きた学校生活の変化にも目配りをしている点にある。
 おざわゆきさんの『あとかたの街』もヴィジュアルなかたちで、過ぎ去った時代への理解を助けてくれる。たとえば少女雑誌の表紙絵にあこがれ、心を奪われるという、その年頃であれば誰もが経験する日常が、あの時代にもあったことが理解される。
 詩人の石垣りんが「美しく油断していた」(「挨拶」)と表現した、そのあまりに安らかで美しい「油断」を、亡くなった人も生き延びた人も分かち合っていた。だからこそ、それを一瞬で奪い去った者への深い怒りが湧いて来るのである。戦争をくぐり抜けた世代の気迫やこだわりは、そのような奪われたものへのいとおしさに満ちている。

展覧会場の様子1

 

 今回の企画展には、「今を生きる若い人たちが二度と再びこのような日々を送ることがないように」という、この展示に携わったすべての人たちの願いが込められている。最後に、今回の企画展から私が学んだことを列挙する非礼をお許しいただきたい。
 戦争とは何か――。それは今を生きる若い人たちの、学校や家庭での一瞬一瞬が、別のかたちに置き換えられ、戦時の一色に染められ、最後に奪い去られることであり、さらに、約束され、希望とともに思い描いていた人生とはかけ離れた人生に付け替えられることであり、そしてあとから「あの戦争さえなければ」という悔悟の念をもって振り返ることである、と。
 戦争とは、単に傷つき、生命を奪われるだけではない。もちろん、傷つき、生命を奪われることが最大の悲しみであることは言うまでもない。そのうえで、いまいちど戦争とは何かについて、皆さんが考えるきっかけをつかんでくだされば、この企画展の願いは叶えられたことになる。