「戦後世代による語り継ぎボランティア」第3回研修会から
ボランティア  吉田 稔

                                           
   

 10月にスタートして、3回目の研修会が12月20日(日)の午前10時~12時まで、開催されました。この日のスケジュールは、主に次のポイントで行われました。
 1)「語り手」の思いに耳を傾ける
 2)グループディスカッションと意見交換

 

1) について、
ピースあいち語り手の会のメンバーの乾正男さん(1933年生まれ、学童疎開、名古屋空襲体験)、望月菊枝さん(1930年生まれ、学徒勤労動員、名古屋空襲体験)の体験語りのDVD(3分に編集したもの)を参加者全員で鑑賞し、その後、語り手の会事務局の坂井さんの司会でお二人に、

展覧会場の様子1

 ・語り手をしようと思った動機は?
 ・語り手として伝えたいことは?
 ・語り手をしてどういう反応がありましたか?
 ・体験を伝えるためにどのような工夫をされたか?
 ・語り継ぎ手に希望していることは何ですか?
など質問し、お話を伺いました。

●乾正男さん:国民学校6年生の時の体験を語る
  乾さんのお住まいは名古屋の栄付近で、昭和20年3月19日の空襲で、松坂屋のコンクリート壁のお蔭で生死を分けた恐ろしい体験をしたこと。また「学童疎開」で、貧しい食事に耐えられなくて畑の野菜や芋を盗ったことなどを、ポイントに写真を見せながら語っていると話されました。

  

●望月菊枝さん:女学校2年の体験を語る
  学徒動員で、三菱電機の工場で飛行機生産の手伝いをしていた。工場が空襲されるようになって学校へ道具類を持ち込んで作業が始まった。昭和20年1月23日の空襲で生死を分ける体験をしたこと。工場勤務の時の弁当は芋がほとんどで、御飯が少しの貧しい弁当だった。そんな弁当を語りの時に作って、生徒さんたちに見せてあげていると話されました。

●お二人に共通することは、
   生死を分ける戦争の不条理を伝え、平和の大切さを伝えたい。
   戦争がどんなに食事を貧しいものにするか、今、どんなに恵まれた食事を受けているか!

2) グループディスカッションでは、語り継ぎ手の皆さんがどうやって取り組みをすすめていくのか意見交換しました。私は第2班に参加しました。語り継ぎ手メンバー4名、ピースあいちメンバー4名。 語り継ぎ手の方が2名欠席されて、双方が同数で良かったのか、よく意見交換ができました。結果として、具体的にどなたの語りをするか決まったメンバーが2名、この語り手さんにしようかなと思いが浮かんだメンバーが1名、残る1名も原爆体験を語り継ぎたいというところに辿りつきました。

 

 また、①今現在、お元気に語られている方を語り継ぐことは? ②同じ語り手を語り継ぐことは? などの意見が出されました。①については、直接、会って話が聞ける利点があること ②については、異なる学校で語るので問題はないのでは。異なる語り方で良いのでは。などお話ししました。
 私自身も語り手の会事務局の一員として、小・中学校等でお話しされる語り手の方に随行し、体験者の語りを多く聞いてきたので、語り継ぎ手の皆さんに少しでもお役に立てると実感しました。