ピースあいち企画展「模擬原爆パンプキン―市民が明らかにした原爆投下部隊―」を終えて
企画展担当 金子 力
模擬原爆パンプキンの実物大タペストリーと筆者
6月9日から8月29日まで開催した企画展が無事終了しました。本来の開催は4月7日から6月6日の予定でしたが、「緊急事態宣言」の発令という予想外の事態となり、一旦は開催をあきらめかけたところ、6月に入って感染防止対策を実施したうえで開催することができました。多くのマスコミに取り上げていただいたこともあり、900人を超える方々に来館いただきました。
今回の展示では、実物大の模擬原爆のタペストリーを見て、長崎に投下されたファットマンと同型・同サイズの模擬原爆パンプキンの巨大さを実感していただこうと考えました。また、この機会に福島の瑞龍寺に保管されている模擬原爆パンプキンの実物の破片を身近で見ていただくことも企画しました。
この模擬原爆の破片は、現在のところ日本で最大のものと考えられます。福島市内の空襲は1945(昭和20)年7月20日に1回あっただけで、投下目標の工場からそれて渡利地区の水田に投下されていました。水田には巨大なクレーターが戦後も残っていました。国土地理院の空中写真閲覧サービスで、戦後に米軍が撮影した写真でクレーターを見ることができます。
この空襲で農作業中の少年が犠牲となりました。少年の父親が破片を持ち帰り、「息子の仇」として手放さずに保管し、後に瑞龍寺に持って行ったもので、今日まで本堂に安置され、貴重な戦争の事実を伝える役割を果たしてきたものです。
今回の企画展のために4月・5月のおよそ2ヵ月の長期間にわたり、この破片をお借りすることができました。ところが臨時休館となり、6月9日からの再開時にはお返しする約束になっていました。そこで、立体的な画像を作製できないかと名城大学の渋井康弘先生に相談したところ、「ものづくり愛知」の技術を生かしてレプリカを作製しようと、ご提案・ご仲介いただきました。そして、瑞龍寺さんに少しの間返却を延期していただき、本物そっくりのレプリカを作ることができました。
非接触・非破壊のため3Dで立体画像を取り、樹脂で形成し、最終工程の着色加工は職人さんの手作業という手間がかかっています。愛知・岐阜・静岡の間をかけめぐってレプリカは完成しました。本物と並べて展示してみたところ、本物と間違えた人が半数いました。
ある日、レプリカのことを説明していると、「それ私が作ったんです!」という方に出会いました。何の事かなと思っていると、レプリカの最終仕上げをした職人さんが来館されていたのです。突然のことで驚きましたが、作ったレプリカがどのように展示されているのか見に来られたそうです。
企画展の中で他にも、思いがけない出来事がありました。春日井の名古屋陸軍造兵廠鳥居松製造所を目標に、終戦前日の8月14日午後に投下された模擬原爆パンプキンのひとつによって自宅を焼失された方との出会いです。
お話をお聞きすると、その日は学徒勤労動員で稲沢の操車場で米軍機から機関車を守るための掩体(天井は無く壁だけ)を作る作業をしてそうです。作業を終えて、鳥居松駅(現春日井駅)まで帰ってくると、上条町に空襲があったことを告げる張り紙があったそうです。急いで戻ると、自宅(農家)は焼失して無くなっていました。幸い犠牲者は無かったそうですが、家と家財すべてを失ってしまったので防空壕で生活したり、生活をしていくのにご苦労されたそうです。着弾地点から自宅までは障害物はなく田畑であったため、赤熱した破片が飛んできて茅葺の屋根に突き刺さり、火災となってしまったそうです。鳥居松の他の着弾地の被害状況は聞いていたのですが、新たに証言をしていただける方との出会いは思いもかけないことでした。
また、今回の企画展では熱心に時間をかけてパネルを読んでいただいていた方も多かったように思います。
熱心にパネルを見つめている中学生の方から「広島・長崎の原爆が投下されたあとの8月14日に、春日井と豊田に合計7発の模擬原爆パンプキンが投下されたのはなぜか?」と質問されました。この疑問は、1991年に「1万ポンド爆弾の効果」についての報告書を国会図書館で見つけた時に私たちも考えていました。その後、工藤洋三さんと奥住義重さんによって「原爆投下訓練用に開発したパンプキンであったが、その破壊力の大きさを調査するための投下であったこと」が分かりました。そんな対話をすることができた企画展でした。
ひとつ残念なことは、この企画展の期間中に予定していた、49発のパンプキンが投下されていた各地で調査・継承活動を行っている団体や個人の方々との交流会が実現できなかったことです。10数団体・個人の方々から参加を検討していただいていましたが、コロナ感染の不安の広がる中で中止せざるを得ませんでした。
2015年に大阪で交流会が開催され、5年後の今年、名古屋での開催を考えていましたがお預けとなりました。いつか交流会を開催したいと願っています。
企画展に当たりお世話になった方々と来館していただいた皆さんに感謝いたします。