戦争を語り継いでみようかなと考えている皆さんに
NPO平和のための戦争メモリアルセンター理事 西形 久司

                                           
 

津波の記憶を刻む
 2013年の夏、勤務校の社会研究部の生徒たちと一緒に、三重県の津波碑を訪ねてまわった。津波碑とは、津波の教訓を子孫に伝えようとする警告碑ともいうべきもので、建てられた時期も、江戸時代の宝永年間や安政年間、さらには昭和東南海地震の時のものもあり、この地域が繰り返し津波に襲われてきたことを証している。  

展覧会場の様子1

 安政期のものであれば、170年ほど経過しており、彫り刻まれた文字はところどころかすれてしまっていて、判読がきわめて困難になっている。石に刻んでまでいったいどのような教訓を後世に伝えようとしたのか。
 先志摩半島の大蔵寺というお寺に「津波流倒記」と題した津波碑がある(右図版)。簡潔な文が多い津波碑のなかで、その碑文の記述はかなり詳細である。地震の直後に水が引いて海底が見えた次の瞬間、山のような大波が襲ってきたという恐怖の体験を記したあと、次のような教訓を記している(以下現代語訳)。
「今後大地震が襲ったら、火を消し、財宝に迷うことなく老人と子どもをつれて、食べ物を持ち早めに高所に避難せよ。夜中といえども警戒を緩めず、日頃から欲に迷えば身命が危ないと心得よ」。これに続く結びの一文、「この事実を紙に書き残そうとも思ったが、それでは朽ちてしまうので石に刻んで将来の備えの一助としたい」。
 紙で書き残したのでは朽ちてしまうので石に刻んだというのであるが、その石さえもこんにちでは朽ちかけている。記憶を語り伝えるのは、これほどまでに難しいことなのである。  

 さて。津波は天災、戦争は人災という違いはあるものの、記憶をのちのちまで(できれば永久に)伝え残したいと思った時、170年前の人たちは石に彫り刻むという方法を選んだ。石に永遠の生命力を認めて、子孫へのメッセージを石に託したのである。しかし永遠よりはるか手前の170年の時点で、石の生命力すら陰り始めている。
 また、後世の子孫に顧みられなくなった津波碑もある。鳥羽市の大江寺の、海抜5メートルほどのところにある「大震塩先地」碑は、津波がここまで到達したことを示すもの(塩先は潮先の意)であり、これより下に住むべからずという警告なのであるが、こんにち「塩先地」碑の前に立って見渡してみると、眼下には民家の屋根がひしめきあっている。
 確かに100年に1度起きるかどうかという天災のために、日々の便利さを犠牲にして生活することはできない。

私たちは忘れる動物
 人間は忘れながら生きている。語り継ぐべき記憶すら、忘却の彼方へと次々に沈めながら……。
 戦争体験の継承という場合、直接戦争を体験した世代の惨禍の痛みも、世代を重ねるうちに徐々に薄れていき、ついには再び戦争へと突き進む。私たちは歴史の授業で覚えきれないほどの戦争の歴史を習うが、戦争の歴史は、戦勝に酔い痴れる勝者や痛苦を忘れた敗者によって再生産されてきた。  

 その昔、英語のバイブル的な受験参考書に『赤尾の豆単』という単語集があって、その栞(しおり)に「人間は忘れる動物である。忘れる以上に覚えることである」と書かれていた。蓋し(けだし)これは至言(しげん)である。忘れてしまうのは仕方がない。私たちは忘れる動物なのだから。それでも(それだからこそ)、ストイックなまでに、忘れる以上の努力を求められているのである。

記憶に永遠の生命を吹き込む
 話を戦争体験の継承に絞ろう。
 まず、前提条件は体験者の体験をのり越えることはできないということである。私たちは「語り継ぎ手」になることはできても、「語り部」にはなれない。まずは体験者に敬意をもって接しなければならない所以である。とはいえ、非体験世代には、体験世代とは違った戦争への迫り方があってよい。  例を通して考えてみよう。空襲体験者からよく聞くのは、空襲の当夜、あちらにもこちらにも焼夷弾が落ちてきて、またたくまに火の海に包まれてしまったという恐怖の体験談である。他方、米軍の資料には、焼夷弾の尾部から噴出した、火のついた油脂の塊は水平方向に90メートル先まで飛んだと書かれている。このような焼夷弾が無数に落ちてくれば、周りはたちどころに火の海になるであろう。このようにして体験者から聞いた体験談が裏付けられ、補強されていく。  

 紙では朽ちてしまう。石に刻んだ文字もかすれ、やがては朽ちていく。しかし世代を継いで語られる戦争体験の「語り」は、「語り継ぎ手」の強い意志さえあれば、永遠の生命を吹き込むことができる。  歴史の必然として、いつかは戦争体験者の最後の一人が、「語り」のステージから姿を消す日が訪れる。その先も、戦争を繰り返さない世界をどのようにつくっていくのか。今度は語り継ごうとする私たちが試されることになる。

いま戦争を語り継ぐこと
 次に、いま戦争を語り継ぐことの意味を考えてみたい。
 私自身は、歴史上繰り返された戦争と20世紀の総力戦以降の戦争とを同じ「戦争」という言葉でひとくくりにはできないと考えている。核軍拡競争まっさかりの1980年代、いったん核保有国の核兵器が使用されれば(核先制攻撃)、地球環境は激変し(核の冬)、地球上のあらゆる生命は数十回にわたり全滅するといわれた。もちろん最初の1回目の全滅で地球は生命を宿さぬ星となり果てる。そうであれば、もはや「次の戦争」なるもの自体が存在しない。人類は戦争の記憶を忘れては戦争を繰り返してきたが、「次の戦争」は存在せず、あるのは破滅だけである。

 

 私は「爆弾は上から下に落ちてくる」という表現をよく使う。当たり前ではないか。いや、私が言いたいのは、空間の「上から下」だけではない。軍事的・経済的な格差に沿って「上から下」に爆弾は落ちてくるのである。
 日中全面戦争で、日本軍は中国を爆撃したが、中国軍は日本本土を爆撃できなかった。ヴェトナム戦争で米軍はヴェトナムを爆撃したが、ヴェトナム軍はアメリカ本土を爆撃できなかった。間違っても爆弾は「下から上」には落ちてはこなかったのである。
 本格的な無差別爆撃は、第一次大戦後、イギリス軍がイラクの人たちの「反英暴動」を鎮圧するために行ったのが最初といわれている。些細な不服従に対しても、イギリス軍は容赦なく爆弾の雨を降らせたという。このような格差を背景とした無差別大量虐殺が繰り返される戦争は、それまでの戦争とは、明らかに異質である。  

 このように見てくると、現代の戦争は、歴史のなかで繰り返されてきた戦争と同列に論じることはできない。忘れるという人間らしい振る舞いがもはや許されない極限の戦争にまで、私たちは到達してしまったのである。
 忘れる以上の努力で、このことだけは覚えておかねばならない。それこそが、紙よりも丈夫で、石よりも堅固な、戦争の記憶の継承の仕方なのである。  

 私たちが戦争を語り継ぐことの意味をご理解いただけたであろうか。うっかり忘れて戦争を繰り返すわけにはいかない。私たちが語り継ぐのは、人類史上最後の戦争体験なのだから。



 *ピースあいちでは、戦後世代の「戦争体験の語り継ぎボランティア」を募集しています。
  詳しくはHP(https://peace-aichi.com/)で。