戦後75年目の夏に ◆みんな 何処へ行ったの?
ピースあいち 語り手の会 八神 邦子
戦後75年。浮浪児・戦災孤児の言葉は死語というより過去にそれらの言葉の存在があったことさえ忘れられている昨今である。
学童集団疎開生の中で一番下の学年で泣き虫だった私も今年85歳。幸せにも戦後を家族と生き長らえたお陰で、高齢者と呼ばれる身になった。
ピースあいちで講演する八神さん
あの疎開生活からの75年間の苦楽を思い出としている私に、『大人が戦争を起こして親を殺し、家を焼いたのに、次には“勝手に生きろ”と言って焼け跡に抛り出された子どもたち』と語っておられた作家・西村滋氏の言葉が目についた。
確かに戦争は1945年8月に終わった。が、テレビドラマや映画の場面と違って、終わったからといって全てが好転したのではなかった。戦火に次ぐ地震などで親たちは罹災しその生死さえおぼつかなく、疎開地の学童は戦争中時代の生活が継続された。私も両親と弟の許に戻ったのは、同年11月であり、1年3ヵ月ぶりの再会だった。次の年の3月、終業式を区切りとして引き取り手のない子を残したまま集団疎開は解散となった。
後で知ったが引き取り手のない児童は12万人を超えたとか。
身内に迎えられても、厄介者として盥回し(たらいまわし)にされたり、過酷な労働を強いられて逃げ出した子も多かったようだ。
新しく建てられた孤児収容施設も内容が伴わず、脱走・逃亡をしては狩り込み(収容)の鼬ごっこ(いたちごっこ)の挙句、路上生活となった様子。
彼らは、戦中には次の時代を担う『国の宝』とされ、親が戦死した孤児は『靖国の遺児』として手厚く保護されるはずが一転して浮浪児・戦災孤児として冷遇されることになった。
施設も少なく路上生活の子どもたちは寺・神社・駅等で寝起きし、靴磨きや新聞・花等を売って働いたが、悪い道に走った子どもたちも多かった。盗み食い、かっぱらい、貰い食いのあとには餓死・凍死・病死が待っていた。
私は、共に疎開地で過ごした同級生との再会も消息も知ることはなかった。この年齢になれば鬼籍に入っているだろうか。
ドラマ「エール」の主人公・古関裕而さんが、昭和20年代、ラジオドラマ「鐘の鳴る丘」の主題歌「とんがり帽子の時計台」をハモンドオルガンで毎日奏しておられるのを聴き、疎開時の同級生に重ねて子ども心に無事を祈ったものである。(鐘の鳴る丘⇒孤児収容施設)