戦後75年目の夏に◆迫る炎の中、逃げまわった空襲体験を語り続けて
ピースあいち語り手の会 澄谷 三八子
昭和20年5月17日、名古屋市南区一帯を焼きつくした空襲の夜。
気がつけばあたりは火の海の中、母は弟を背負い三人の子どもの手を引いて逃げまわりました。戦後75年経った今も、私にとって遠い昔のことではないのです。当時私は7歳。忘れたくても、あの日の光景は鮮明に覚えていて忘れられないからです。
ピースあいちで語る澄谷さん
父は軍人でしたから家にはいませんでした。その当時は毎夜空襲に襲われていました。とうとうこの日、私の家の近くが燃え、あっちこっちと逃げてたどりついた所が熱田神宮の南側内田橋でした。
ところが橋は燃え落ちてありませんでした。後ろからは火が迫り、追いつめられた大勢の人たちが土手の上で右往左往していました。誰もが対岸の熱田神宮へ逃げようと必死だったのです。この運河は木材工場が多く、小さな舟がたくさんあり、人々はその舟で向こう岸へ渡り神宮へ逃げたかったのです。
母は石垣を下り、舟に向かって大声で「乗せてください。乗せてください」と何度も何度も叫んでいました。何隻目かの舟に乗ることができましたが、流れに逆らい竹竿で漕ぐのですから、舟はなかなか進みませんでした。やっとの思いで向こう岸についた頃には、朝を迎えていました。
驚いたことに神宮寄りの街はなにも燃えていなく、空襲のあともありませんでした。私の住んでいた中川運河の南側は、街全体が焼け野原で何もありませんでした。
何百万人もの犠牲者を出した戦争。もう2度とあってはならないと祈る今日ですが、今でも世界のどこかで戦いは続いています。人間は何と愚かなんでしょう。何で平和にゆったりと生活できないのでしょうか。
自分自身が体験していないからわからないのでしょうか。そうだとすれば、戦争を知らない世代の人たちは、あの忌まわしい戦争への道を歩くのではないかと思ってしまいます。
新型コロナ感染症とのたたかいの真最中の戦後75年目の夏。早くワクチン・治療薬の開発を望むとともに、今できること、今でなければできないこと―戦地で戦ってきた人たちの苦しみ、そこで亡くなった人たちや家族の悲しみの体験、私の受けた空襲体験などを、いっぱいいっぱい集め、戦争を知らない世代の人たちに、この「戦争体験」を伝え続けなければと思います。