◆71年後(2016年)に判明した、1945年7月24日、四日市で行われた原爆投下訓練の悲劇
早川 寛司(四日市の小学校教師)
ピースあいちが臨時休館になり、4月7日(火)から開催予定だった企画展「模擬原爆パンプキンー市民が明らかにした原爆投下訓練」が延期になりました。4月号に続き、この企画展にご協力いただいた方からの投稿をご紹介します。
茨木房子さんと恵巨(けいご)さん
1945年7月24日に四日市に投下されたパンプキンの着弾地点が71年間、不明であった。犠牲となられた方のお名前も不明であった。それを2016年8月、ついに突き止めることができた。亡くなられたのは、茨木房子さん(当時29歳)と、その二男・恵巨(けいご)さん(8歳)であった。右の写真は、恵巨さん誕生まもなくのころと思われる。
1.「前ノ山」はどこか
春日井の空襲を記録する会の金子力さんから「1945年7月24日、四日市の四郷の前ノ山というところに投弾されたという記録が『四日市市史』にあります。パンプキンの可能性があります。地元で調べていただけませんか。」 というお話を2013年にうかがっていた。しかし、何の手がかりもないまま、3年が過ぎた。それが2016年、急展開した。
2016年3月12日、四郷小学校の先生の協力を得て、四郷郷土資料館保存会のみなさんのお話を伺うことができた。このとき「戦後、1トン爆弾が落ちた跡で遊んだ」という体験をもつ伊藤哲夫さん(1946年生まれ)と出会うことができた。初めは「現在の笹川東小学校か笹川団地の辺りに大きな穴があった。それがパンプキン着弾地点だろう。」ということだった。
池の水が抜かれた安政池
ところが、4月末、伊藤哲夫さんの同級生の福田稔さん(1946年生まれ)から「爆弾の犠牲者も見たという81歳の人がうちの隣に住んでいる」という情報が寄せられた。
その人は小坂壽保さん(1935年生まれ)であった。小坂さんによると爆弾が落ちた場所は、海軍官舎の前の「安政池」の東の堤防だというのである。
右の写真がその「安政池」である。2016年は、住宅地として造成中で、池の水もほとんど抜かれていた。
この安政池の近くに、戦争中の海軍官舎が修復されてはいるものの、現存するという情報も寄せられ、伊藤哲夫さんと一緒に訪ねてみた。そこで出会ったのが福堀利昭さん(1937年生まれ)である。福堀さんからは、「茨木さんという家の奥さんと10歳くらいの息子さんの二人が亡くなられた。」と教えていただいた。ここまでの聴き取りの経緯が、2016年7月31日の読売新聞に「模擬原爆着弾地一つ判明」として掲載された。
2.パンプキン投下の瞬間を見た
その後、亀山の岩脇彰さんから「『伊勢の海は燃えて』(1978年第三文明社)という戦争体験談集の中に、パンプキン投下の瞬間に出会ったのではないかという人の文章があるよ。」という連絡をもらった。
1945年当時27歳、ご存命なら98歳になられている片山巳一さんという方の体験談だった。片山さんは「真黒な雨傘をさかさまにしたような爆弾」が落下してくるのを見た、道路に伏せると「ものすごい音とともに砂が頭に降ってきた」という生々しい体験談を書かれている。しかも、爆弾で亡くなられた方とは同郷で(美杉村)、その「婦人と子供」のお通夜にも出たという。
この片山さんか、そのご家族を探すことができたなら、さらに詳しくわかるのではないかと思った。探せば見つかるものである。なんと、片山巳一さんの配偶者・片山たずさん(1923年生まれ)にお会いすることができた。このとき、たずさんは93歳、お元気であった。
3.片山たずさんのお話
片山たずさんに、夫の巳一さんが書かれた体験談について確認した。
「この亡くなられた方は茨木さんですか。」
「そうです。茨木さんです。きれいな奥さんでした。女優さんのような、背の高い方で・・・」
と、たずさんは、ついこの間のことというように、次々と思い出されることを話してくださった。
「男の子は顔が上を向いて、おなかがねじれて脚が下を向いていました。それはかわいそうでしたよ。奥さんも子どもさんも顔はきれいなままでした。」
「旦那さんは『まさこ』確か『まさこ』と呼ばれたと思いますが、奥さんの顔に口を近づけて名前を泣きながら呼んでいました。それはもう気の毒でした。」
お話の途中から、片山たずさんは涙を浮かべて、お話をしてくださった。
その後、茨木さんのお孫さんにあたる方の連絡先として教えていただいたところに電話をした。それが8月31日であった。電話をかけると、「新聞で読んで知っております。あの模擬原爆のことですね。私は当事者です。あのとき、現場におりました。」と答えられたので、私は驚いた。
電話にでられた方は茨木正勝さん(1936年生まれ)。亡くなられた房子さんの長男。亡くなられた男の子は正勝さんの弟で房子さんの二男(8歳)だったのだ。さらに、もう一人、三男(6歳)と1歳の長女もいたのである。破裂したパンプキンの無数の破片は茨木さん家族が住んでいた海軍官舎に襲いかかった。その破片の一つは、お母さん(茨木房子さん)の首を切り裂き、もう一つの破片は茨木恵巨(けいご)さんの腹部を貫通したのである。
後日、片山たずさんにうかがった話では茨木さん母子5人は、7月23日に美杉村から四日市に来たばかりだったというのである。茨木さん母子が美杉村から津駅に向かうバスに乗ったとき、片山さんの妹さん母子もいっしょに、そのバスに乗った。しかし、「津も四日市も空襲にあうかもしれない。」と、片山さんのお母さんがバスに乗った妹さんたちを強引に降ろしたというのである。
茨木さん母子は、そのままバスに乗って、津駅へ、さらに四日市へと向かい、空襲に遭われた。7月24日は四日市へのパンプキン投下だけでなく三重県全体が空襲を受け、特に津では1200人の死者を出す大空襲を受けていた。
もし、その日、そのバスに乗らなかったら、バスから降りていたら、7月24日の朝、家族みんなが家の外の畑に行っていたら・・・
茨木さん家族の悲劇は、戦争の理不尽さを物語っている。
パンプキンでお母さんと弟さんを亡くされた体験を語ってくださった茨木正勝さんは、2020年1月30日、84歳で亡くなられた。2016年、何度目かのお話をうかがった後、正勝さんは私に「私が長い間、仕事で使っていたこの鞄を早川さんに差し上げます。」と、鞄をくださった。
「パンプキンのこと、私たち家族のことを、語り継いでいってください。」そんな思いを込めて、手渡されたと思う。茨木正勝さんのご冥福をお祈りいたします。